古代日本における冬至の日の出線(その1)

古代日本における冬至の日の出線(その1)

古代日本における冬至の日の出線(その1)
『東アジアの古代文化』(第77号'93年秋)大和書房

はじめに
① 「史記封禅書」と「漢書郊祀志」
② 冬至の祀りと祭天の方法
③ 交野(かたの)における天神の祀り
④ 天神を祀った場所の候補地
⑤ 神体山を中心に据える
⑥ 百済王神社の丘陵と冬至の線
⑦ まとめ
(補注1)
(補注2)



はじめに
 回教圏を別にすると、暦における年初におよそ三種がある。「冬至」の日を一月一日とする暦、「立春」の日を一月一日とする暦、および「割礼(かつれい)」の日を一月一日とする暦の三者である。

 この中で、わが国も含めて今日の世界で最も広く使用されているのは、「割礼年初暦」である。実は筆者も、本論にとりかかるまでは割礼年初暦は知らなかった(未尾の補注1を参照されたい)。

 さて、本論は冬至が主題だが、冬至は古くから「太陽復活の日」として知られており、古代中国でも、ローマでも非常に重視されていた。クリスマスも本来は冬至の日であった(これも未尾の補注1を参照)。わが国の新嘗(にいなめ)祭も古くは冬至に行われたようである。

今でも黒住教は冬至の日の出を最重視している。

 また、大きな薬品会社の集まっている大阪の道修町では神農(じんのう)の祭を行なっているが、その祭日は冬至である。神農は古代中国の王で、自ら色々な草をなめて薬草を発見したため、古来医薬の祖と仰がれている人である。何れにしても冬至は、世界各地において古くから重要な日であったといえよう。一方、「続日本紀」に、「桓武天皇が天神を祀った」という記事がある。そして、その場所は河内国の「交野(かたの)」だと記されているが、現在のところ「交野のどこか」が解明されていない。いくつかの候補地はあるのだが、何れも確証がない。

 本論では、冬至の日の出の線(真東から三十度南へよった線)に焦点を当てるという観点から、桓武天皇が天神を祀った場所を追求すると共に、古代日本の各地における冬至の祭祀にも言及してみることにしたい。

①「史記封禅書」と「漢書郊祀志」
 古代中国における祭祀の様子を知る有力な手掛かりは、『史記封禅(ほうぜん)書』と『漢書郊祀(こうし)志』である。史記は、黄帝から前漢の武帝までの歴史で、前漢の司馬遷(しばせん)が著した史書だが、その中に「封禅書」と題する部分があり、ここに祭祀の様子を記している。

 また、史記と並んで名高い漢書は、後漢の班固(はんこ)の著で、これは前漢の歴史である。その中の「郊祀志」と名付けられた部分に祭祀の様子が記されている。故に、これらの書を調べれば古代中国の祭祀のありかたが分かることになる。

 司馬遷(前一四五頃から前九三年)は、前漢の武帝と同時代の人。武帝は朝鮮半島に楽浪郡などを置いた。当時の日本列島は弥生前期の終わりから中期の初めにかけての頃で、楽浪郡などから色々な影響を受けていた。また、班固(三二から九二年)は弥生中期後半の人で、奴(な)国王が国王が光武帝から金印を貰った頃の人だと言ってもよい。したがって、「封禅書」、「郊祀志」の記事は古代日本における祭祀のあり方を知る上で大切な手掛かりになると言えよう。

②冬至の祀りと祭天の方法
 「封禅書」や「郊祀志」には、「天子が冬至に天を祀り、夏至に地を祀り」などの記事が多く見える。 こうした祀りは天子が行う極めて重要なものであった。
 その他、「天は円丘で祀り、地は方沢で祀る」などとも記されている。そして、天を祀るには「柴を燃やした」のであり、地を祀るには「犠牲を土中に埋めた」のであり、川を祀るには「犠牲を水に沈めた」のである。

 少々 長くなるが、論を進める上で大切なので、「封禅書」や「郊祀志」に見える祭天に関する主な記事を列挙してみれば、以下の如くである。

1・「周官(しゅうかん)に日く。冬の日至に天を南郊に祀り、長日に至るを迎う。夏の日至に地祇を祭る。皆、舞楽を用う。」

 これは「封禅書」の記事。「周官」は「周礼」。周王朝の時に、冬至には天を祀り、夏至には地を祭っていたことが分かる。天の祀りは都の「南郊」で行ったこと、その目的の一つが「長日に至るを迎う」であったこと、天地の祭祀に「舞楽」が伴っていたことなども分かる。

2・「天は陰を好む。これを祀るに必ず高山の下小山の上に於いてす。命(なづ)けて畤(じ)という。地は陽を貴ぶ。これを祭るには必ず沢中の円丘に於いてすという。」

 これも「封禅書」の記事。この祭祀は斉(せい)国のもの。この国は春秋戦国時代を通して山東半島にあり、この国の祭祀が秦の始皇帝や前漢の武帝などの祭祀に大きな影響を与えたとされている。天は陽であるため「陰を好む」。「畤」は天を祭るのに山の麓に築いた祭壇。地は陰であるので「陽を貴ぶ」。「沢中の円丘」は池とか沼の中、或いはそれらのほとりの円丘。地は後には沢中の方丘で祀ったが、ここでは円丘。

3・「雍(よう)に郊(こう)し、一角の獣を獲たり。麟(りん)の如く然り。畤ごとに「牛を加え、以て燎(や)く。」

 これも「封禅書」の記事。文の主語は前漢の武帝。「郊し」は天を祀ったのだが、その時、めでたい「一角の獣」を獲た。「畤」は五ツあるので、「畤ごと」に犠牲の「牛」を一頭ずつ増やした。 「畤」は2に見える。「燎(や)く」は天を祀る方法で柴を燃やすこと。即ち、その煙や香りを空(天)へ上げる。

4・「今年、宝鼎を得たり。その冬辛巳朔旦(さくたん)は冬至なり。黄帝の時と等し。(中略)黄帝、宝鼎・神策を得たり。この歳己酉朔旦は冬至なり。天の紀を得たり。終わりて復た始まる。」

 これも「封禅書」の記事。(中略)より前の部分は公孫卿という人の言葉。それより後の部分は鬼臾區という人の言葉。
 両者とも天を祀ることを説いている。「朔旦」は朔(ついたち)。即ち、この日は十一月一日。十一月一日が冬至と重なる場合は特にめでたいとされた。「黄帝の時」にも同じことがあり、しかも「宝鼎」を得たのも黄帝の時と同じであると言っている。

5・「十一月辛巳朔旦冬至の昧爽(まいそう)、天子始めて郊して太一(たいいつ)を拝す。」

 これは前項に続く記事。「昧爽」は夜の明け方。「太一」は天神。この神は後に道教の最高神となった。冬至に天を祀るのは、夜明けであることも要注意。

6・「柴を泰壇(たいだん)に燔(や)くは天を祭るなり。泰折(たいせつ)に?埋(えいまい)するは、地を祭るなり。」

 これは「郊祀志」に引かれている「礼記」の記事。「泰壇」は天を祀る時の円い祭壇。その上で柴を燃やす。3にも柴を燃やす記事があった。「泰折」は大折とも書き、地を祭るための方形の祭壇。

 「?埋」は埋める意。即ち、犠牲の牛などを「泰折」の土中に埋める。 「燔」は「肉を燎(や)く」ことで、「あぶる」の意もある。

 天を祀る時は犠牲をあぶり焼いたことが考えられる。というのは、地を祭る時は犠牲を土中に埋めたのであり、川を祭る時は犠牲を川中に沈めたり川岸に埋めるなどの方法がとられていたからである。注意すべき点は、地の場合も川の場合も、犠牲はそれぞれの方法で処理されていることである。換言すれば、儀式の終わった時、そこに犠牲の姿は存在しないのである。したがって、天に捧げられた犠牲も、祭壇の上であぶって焼いてしまい、その煙や香りを天へ昇らせたのであり、それが犠牲を天に供える方法なのである。「柴を泰壇に燔く」は、単に柴を燃やしたものではあるまい。古代人のやり方は即物的であったと言えよう。

7・「冬の日至に地上の円丘においてこれを奏す。もし楽(がく)六変すれば、則ち天神皆な降る。夏の日至に沢中の方丘においてこれを奏す。もし楽八変すれば則ち地示(ちぎ)皆な出づ。」

 これも「郊祀志」の 記事。内容は、後に新王朝を建てた王莽(おうもう)が「周礼」にある記録をひいて漢の皇帝に対して話しているのである。天の神は上から下りてくる。地の神は土中から出てくると考えられていたことが分かる。

 以上は古代中国の記録だが、現在も北京には天壇と地壇がある。今は公園になっているが、この両者は、明王朝の永楽帝以来、清王朝の終りまでの約五百年間にわたって歴代の皇帝が冬至には天を、夏至には地を祀った場所である。

 天壇は石造の三層の円丘。地壇は沢の中に二層の方丘が設けられている。円丘の天壇と地壇の方丘をヒントにして前方後円墳の謎を解こうとする人もいる。また、わが国でも、修験道で護摩を焚く。室内でも焚くが室外でも焚く。修験道の祖とされる役小角(えんのおづぬ)は柴を燃やして天を祀ったものと考えられる。修験道で護摩を焚くのは山中で獣害から逃れるために始まったとする人もいるが、見当外れではなかろうか。わが国では、雨乞にも山頂で火を燃やす。こうした山は龍王山と呼ばれていることが多いが、煙を空に上げて天神に雨を願う意であろう。天の祀り、天への祈りは煙を空に上げるしかないようである。

③交野(かたの)における天神の祀り
 さて、わが国における明確な祭天の記録は「続日本紀」と「文徳実録」に見える。桓武天皇と文徳天皇が行ったもので、場所はいずれも河内国の交野である。桓武天皇は延暦四年と延暦六年の二回、天神の祀りを行っている。

 なお、ここにいう交野は現在の大阪府北部の枚方(ひらかた)市・交野市の辺りのことで、今の交野市よりもずっと広い地域を指す。「続日本紀」の記事は以下の如くである。

 「延暦四年(中略)十一月(中略)壬寅。天神を交野の柏原に祀る。宿?(しゅくとう)が賽(さい)してなり。」

 「壬寅」は十日、即ち十一月十日。「宿?を賽して」の意味は不明とされている(筆者の考えは後に述べる)。ここで問題は二つある。一つは祀りを行った場所がなぜ交野なのかという点。二つめは祀りの場所は交野のどこかという点。(これらに関しても後述)。

 「延暦六年(中略)十一月甲寅。天神を交野に祀る。その祭文に日く。(中略)敢て昭(あきら)かに昊天(こうてん)上帝に告ぐ。 (中略)方今大明(たいめい)南至(なんし)。長(ちよ)?うき初めて昇る。敬て燔祀(はんし)の義を采り(中略)謹て玉帛(ぎょくはく)、犠斎(ぎせい)、粢盛(しせい)の庶品を以て、この?燎(いんりょう)に備え、云々 。」

 「甲寅」は五日で、十一月五日。「昊天」は空、「上帝」は神、「周礼」に「昊天上帝を祀る」とある。「大明」は日輪、即ち太陽。「南至」は冬至。「長?」は長い日影、それが「初めて昇る」というのだから日が長くなり始めるわけである。燔祀の「燔」の字は「柴を泰壇に燔くは天を祭るなり」(前掲6)にも見えるが、単に柴を燃やすのでなく、前述の如く、犠牲の牛をあぶり焼く意味にとるのが妥当であろう。「燔祀の義を采り」とあるから、交野での天神の祭祀も中国のそれと全く同じ内容。「玉帛」は玉と絹織物、「犠斎」は犠牲の意。交野でも犠牲が準備されているから「燔(や)」いたはずである。

 「粢盛」は器に盛った粢。「?燎」の「?」は、例えば「?祀」で神を祭る意味となる。「燔」の字は、前掲の(畤 ごとに一牛を加え、以て燎(や)く」(前掲3)にも見える天を祀る時の作法。

 以上に見るように、延暦四年の時も延暦六年の時も天神を祀ったのが十一月の初め頃だという点は要注意である。例えば五月だとか八月とかではない。延暦四年は「壬寅」で十日、六年は「甲寅」で五日だが、両日とも冬至の日だと考えられる。

 したがって、「延暦六年、十一月甲寅。天神を交野に祀る」の記事の意味は、「桓武天皇が交野において冬至の日に天の祭祀を行った」ということになる。したがって、「延暦四年十一月、壬寅。天神を交野の柏原に祀る」の目的も冬至の祭祀であったことになる。

 そうだとすれば、宿題になっている「宿?を賽(さい)してなり」については次のように推測できる。即ち、桓武天皇は中国の天子が冬至の日に行う天の祭祀を以前から一度執行してみたいと念願していたのである。それが「宿?」である。そして、いよいよ実行したのが延暦四年の祀りだということである。

 延暦六年の記事に「宿?」という語が見えないのは、二度めだからである。長岡京、続いて平安京を造営したファイトある天皇である。それはまた、この天皇が長安京、ひいては中国を強く意識していた表れでもある。この天皇が中国の天子が行った天の祭祀の執行を以前から念願としていたとしても不思議はない。

 更に「文徳実録」によれば文徳天皇も天の祀りを行っている。

「斎衡三年(中略)十一月(中略)今月の二十五日、河内国交野の原に、昊天の祭りせむとして、云々 。」

 月はやはり十一月。場所も交野。「昊天」は前にもあったが天のこと。「二十五日」はやはり冬至だと考えられる。

④天神を祀った場所の候補地
 次は、「桓武天皇が天神の祭祀を行ったのは交野のどこか」の問題に移るが、これに関する従来の候補地は三つある。
 即ち、片野神社・片鉾(かたほこ)付近・交野天神社の三者である。だが、何れも説であって確証はない。筆者も現地に行ってみたが明確でない。そこで、枚方(ひらかた)市教育委員会の大竹弘之氏(考古学)を訪ねた。氏も天神の祭祀の行われた郊祀壇を、右の三候補を中心に、前々から追求しておられた様子で、筆者の質問にも熱心に応答して下さったが、結論はやはり不明であるとのことであった。

 吉田東伍氏著「大日本地名辞書」の「片野神社」の項には要旨次の記事が見えている。「交野(かたの)神社は大阪府北河内郡牧村大字坂に鎮座。おそらくは、ここが桓武天皇が天神を祀った遺址であろう。式内社。河内志に郊祀壇址を片鉾にあるとするが確証はない。」と。これでみると、吉田氏は今の片野神社の地が有力な候補地と考えておられたようである。

 次に、吉田氏も付言しておられるように、河内志は片鉾に郊祀壇の址があるという。郊祀壇と言えば「封禅書」・「郊祀志」に見える祭天のための壇で、それは円丘であった。そうした壇が実際に見つかれば最上であるが、残念ながら確証はない。

 更に、いま一つの候補として交野天神社がある。この神社は大阪府北河内郡樟葉、別のいい方をすれば石清水八幡宮で名高い男山丘陵の南麓に鎮座していて、継体天皇の樟葉宮の旧址とも伝えられている。訪れてみたが、樹木も茂り奥床しい。「交野天神社」という名からすれば「交野における天神の祀り」に最も近い。だが、確証はない。

⑤神体山を中心に据える
 話は変わるが、ある地域の古代史を考える場合の方法として、その地域の神体山を中心に据えてみるというのが筆者の持論である。即ち、先ず初めにその地域の神体山はどの山かを定め、しかる後にその山を中心にしてその地域の古代史がどのように展開されたかを考えていくのである。

 例えば、大和の古代史を考える場合は、三輪山を中心に据えるわけである。筆者でなくても、有名な箸墓はこの山と深い関係があるという人はかなりいる。三輪王朝ということを唱える人もいるくらい、この山は重視されている。即ちこの山を中心に展開されたと言ってもよいのである。

 同様に、伊勢地域の神体山は内宮の奥の院と言われる朝熊山である。この地域の古代史を考える時、内宮があまりにも有名なので、ややもすると内宮を中心にした考え方をしがちだが、内宮が何故そこに設けられたかを追求していくと、内宮の真東に朝熊山があることに気付くのである。

 即ち、内宮は朝熊山という聖なる山(更にはそこから昇る太陽)を拝むのに適した地に設けられた神社であることに思い至るのである。

 内宮がいくら古い歴史を持っているといっても、内宮が建てられる以前から朝熊山がそこにあったことは明らかである。
 内宮の東にある山だから朝熊山が聖なる山として崇められるようになったのではなく、聖なる朝熊山がそこにあったから内宮がそこに設けられたのである(朝熊山に関しては後述)。

 また、ここでは説明を省くが、播磨地域の神体山は書写山(西国二十七番札所円教寺が所在)であり、吉備地域の神体山は吉備の中山(麓に備前国一宮と備中国一宮が鎮座)であり、宇佐地域の神体山は御許山(宇佐神宮の奥宮)である。

 以上の如く、これらの地域の古代史はこれらの聖なる山を中心に展開したと考えられるのであり、これが筆者の持論である。今、この考え方を交野(昔の交野)地域に応用すると、東に見える交野山がそれに当たる。高さは約三百メートルで、神体山として適当である。あまり高い山は神体山にはならない。また、山形の良いこと、あるいは山形に特色があることも大切である。平野から眺めて誰の目にもすぐにあれが交野山だと分からなければならない。交野山は円錐形の優れた山形をしている。

 更に、その頂き、あるいは頂き近くにイワクラがあれば神体山としての条件は揃う。交野山の頂上には巨岩があり、その岩には江戸時代(寛文六年)に観音の種字(しゅじ)(約二米四角の大きな焚字)が彫りこまれている。

 筆者は、これまでに各地で数百のイワクラを見たが、そうしたイフクラの中には仏の種字や仏像・菩薩像などが彫られているものもかなりの数にのぼる。例えば、笠置山の頂きにある弥勒(みろく)岩は巨大な弥勒像が線刻されていて名高い。この山にも登ってみたが、この岩もかつてのイワクラと考えて間違いないと確信した。一般に、それ以前に何の意味も持っていなかった単なる岩には誰も何も彫ろうとしないのである。それは岩の大小には関係ない。交野山の観音岩も種字が彫られた後に崇められるようになったのでなく、その岩が以前から聖なる岩(イワクラ)であったが故に江戸時代の僧によって種字が彫られたのである。

 交野山の頂上に登り、観音岩の上に立って見たが、交野の平野を一望の下に眺めることができた。ということは、逆に、交野平野のどこからでもこの山頂がよく見えるということである。ある程度遠くても、観音岩そのものもまたよく見える。

 古代の交野地域の人たちが交野山を神山として崇めながら暮らしていたことは間違いあるまい。

 古代の人たちは、そうした神体山から昇る太陽の位置を見て、季節を知った。あの山のあそこから日が出ると種を蒔く、あそこから出るようになると田植えだなどと。これは現在でもやっている地域がある。山は水陸交通の目当てでもあったが、山から出る太陽の位置は農耕の暦でもあった。

 その場合、とりわけ姿の優れた山や形の目立つ山、しかもどこからでもよく見える山が暦になったのであり、そうした山が神体山として人々 から親しみ崇められたのである。この地域の人たちにとって交野山は暦でもあったわけである。
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⑥百済王神社の丘陵と冬至の線
 冬至のことに戻るが、冬至の日を知るにも、当然神体山が基準にされた。この日は農耕にとってとりわけ重要な太陽復活という神聖な日である。では、交野平野のどこから見れば交野山に昇る太陽を見て今日が冬至だと分かるのか。

 冬至の太陽は真東から約三度南によった所から出ることは周知のことである。

 地図上で交野山から交野平野の方へ三十度の線を求めると、すぐ麓に機物(はたもの)神社がある。ここの鳥居の真上に交野山の観音岩が見えるという。筆者も見てみたが、確かに観音岩が見えた。そうした観点から、この神社が交野山を神体山としていることに注目しておられる人がいる。 だが、両者を結んだ線が冬至の日の出線になっていることはまだ誰も言っておられないようである。この神社は名からして由緒ある神社だと思え、加えて近くに神宮寺の地名もあることなどから、筆者も初めはこの神社の辺りが桓武天皇が天神を祀った場所かもしれないと考えた。

 だが、更にその線を延長してみると、枚方の百済王神社(百済寺址)の丘陵(高さ約三十米)に来る。丘陵上の神社付近から交野山を見ようと試みたが、残念ながら今は家やビルが建って、ここからは交野山がうまく見えない。

 そこで筆者は見当を付けて、少し離れた星ケ丘厚生年金病院の屋上(八階)に昇ってみた。果たせるかな、交野山の姿が完全にはっきりと際立って見えた。それをカメラにおさめた後、今度は真後ろを見ると百済王神社の丘陵が見えた。つまり、交野山・星ケ丘厚生年金病院・百済王神社の三者が一直線上にあることが確かめられた。ということは、以前は百済王神社から交野山がはっきり見えたということになる。

 両者は地図上に引いた線では正確に三十度にならない。ほんの少し三十度より大きい。だが、それでよい。なぜならば、三百米の高さの山から日が昇るわけだから(地平線ではないから)三十度よりやや南によるのが当然ということになるからである。

 以上からする結論は、「百済王神社の丘陵から見て交野山(巨大なイワクラ)にに太陽が昇る日が冬至だ」ということになる。
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⑦まとめ
 ここで「桓武天皇が交野で天神を祀ったが、それは交野のどこか」という問題に戻る。その答えは、「百済王神社の鎮座している丘陵」だということである。以下にそう言える根拠を整理しておく。

① 古代の中国で、天子が天を祀ったのは冬至である。ところが、延暦四年・延暦六年の天神の祭祀は、いずれも十一月の初めであり、これは何れも冬至の日だと考えて間違いない。
 このことは六年の時の祭文の内容からも明らかである。

② 占代の各地域の人たちは、それぞれの神体山を中心にしながら生活を営んでいたが、交野地域における神体山は交野山であった。したがって、冬至の祀りは、この交野山から昇る太陽に向かって行われたと考えられる。
 冬至の祀りは天(太陽)の祀りである。だが、その太陽はどこから出てもよいというわけではない。それは神体山から昇るものでなければならないはずである。
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 加えるに、古代における交野山の重要性は、この山が桓武天皇の造営した長岡京の中心軸の真南に位置しているこどからも窺える。このことは、この天皇が交野山を非常に強く意識していた証拠と言えよう。いうなれば、この山は交野の象徴なのであった。

③ 百済王神社の丘陵から見て交野山は真東から三十度の位置にある。即ち、この丘陵から見れば、冬至の朝日は丁度交野山に昇る。したがって、交野地域における冬至の祀り、換言すれば天神の祭祀は、百済王神社の丘陵で行われたと考えるのが最も妥当となる。

 加えるに、桓武天皇と百済王氏との密接な関係は史上有名である(末尾の補注2)。この天皇は百済王氏の本拠、即ち百済王神社の丘陵にしばしば登ったことであろう。この天皇がこの丘陵から交野の象徴交野山に昇る太陽を冬至に拝んだとしても、換言すれば、この丘陵において「天神を祀った」としても何の不合理もない。

 この丘陵は百済王氏一族がここに本拠を置く以前から、おそらくは弥生時代から、人々が交野山から昇る冬至の太陽を拝む(天を祀る)ための聖なる丘であったと思われる。そうした聖なる丘であったればこそ、百済王氏もこの丘を選んで百済王神社や百済寺を建てたのである。百済王氏は権力者である。権力者の神社や寺院は、それ以前に何でもなかった場所には入ってこない。以前から共同体の人たちが祀りを行っていた場所に後から人ってくるのであり、このことは各地の古い神社や寺院でしばしば見られるところである。

(追記)前記の片野神社・片鉾の付近・交野神社の三者の位置は、何れも交野山と三十度にはならない。ということは、冬至の祀り(天神の祀り)に適した場所とは考えにくい。また、百済王神社の位置する中宮の地は百済王氏の本拠地であり、前記の大竹弘之氏のお話では、考古学的遺物が最も豊富で、その質も高い所だとのことである。

(古代思想研究家)


(補注1)
 永田久氏著「暦と占いの科学」(新潮社)には、冬至に関して要旨次の如き記事がある。

 「中国では立春を年初とする考え方は漢の時代に始まる。それ以前は春は冬至からと考えられていた。一日の日照時間を基に考えると、冬至は昼が一年中で最も短く夜が最も長い。陰気が極まって、これから陽気が萌すという、陰から陽への一陽来復の日だというわけで、冬至から春が始まると考えられた。しかし、今度は気温を基に考えると、最も気温の下がる日は立春で、立春からしだいに暖かさが増して春になる。こうして、漢の時代になると、一陽来復の日として立春が年初と定められるようになった。つまり、冬至年初暦と立春年初暦があるわけである。」

 「ローマでは、十二月十七日から七日間にわたって、サトウルヌス(農耕神)を讃える祭サトウルナリアを祝った。このサトウルナリアが最高潮に達する最終日が冬至に当たるように計画されていたのだが、クリスマスもまた、太陽復活の日である冬至を祝って定められた日だったからである。

 聖書にある通り、三月二十五日が受胎告知の日で、キリストはそれから九カ月経って生まれた。

 したがってキリストは十二月二十五日に生まれたことになり、クリスマスとしてキリストの誕生日が設けられた。この世の光りであり太陽であるキリストの誕生日というと意味をこめて、太陽神ミトラの誕生日である冬至を祝う日として定められたのである。ところが、計算上の狂いのため、現在では冬至はクリスマスと一致していない。

 現在の元旦(一月一日)もクリスマス(換言すれば冬至)と関係がある。即ち、キリストはユダヤ人として生まれたため、生まれて八日目めに、アブラハムと神との契約である割礼(かつれい)を受けた。ユダヤ人にとって割礼の儀式は、神の庇護の下に未来の幸福を約束される極めて重要な儀式であった。その儀式を十二月二十五日から八日めときめ、その日を一年の始めとしたのが現在の一月一日で、それが世界各国に伝わって、現在のようになったのである。現在の年初は割礼年初と言われている。」

(補注2 )
 「続日本紀」によれば、桓武天皇は延暦二年にも交野に行幸している。

 「延暦二年(中略)冬十月(中略)戊午。交野に行幸す。鷹を放ちて遊獵す。」

 「戊年」は十四日、即ち十月十四日。記事の概略は、桓武天皇が交野に行幸して鷹狩りをしたというもの。では、なぜ交野に行幸したのか。これに続く同書の記事を見ればその手掛かりが得られる。

 「庚申。詔して、当郡今年の田租を免じ、国郡司および行宮(あんぐう)側近の高年並びに諸司の陪従せる者に、物を賜うこと各差あり。また、百済王等の行在所(あんざいしょ)に供奉せる者一両人に、階を進め爵を加う。百済寺に近江・播磨二国の正税各万千束を施し、正五位上百済王利善に従四位下、従五位百済王武鏡に正五位下、従五位下百済王元徳・百済王玄鏡に従五位上、従四位上百済王明信に正四位下、正六位上百済王真善に従五位下を授く。壬戊。車駕交野より至れり。」

 「庚申」は十六日、即ち、交野に行幸した翌々日。「当郡」は交野郡。続く記事の内容を簡単に言えば、交野に住む百済王氏一族の税を軽くし、一族の氏寺に多額の寄付をし、一族の人々 の位を上げたということである。そして、「壬戊」、即ち十八日に天皇は交野を去った。交野に滞在した期間は五日間。その間の「行在所」、即ち、天皇の宿泊所は百済王氏の屋敷であった。

 「延暦九年(中略)二月(中略)甲午。詔して(中略)百済王玄鏡に従四位下、従五位上百済王仁貞に正五位上(中略)正六位上百済王鏡仁に従五位下を授く。この日詔して曰く。百済王等は朕が外戚なり。」

 「甲午」は二十七日。ここでも百済王氏の一族の位が上げられている。前掲の延暦二年の記事と同様、桓武天皇が百済王氏一族を非常に重んじ優遇していたことが分かる。中でも注目すべきは「百済王等は朕(ちん)が外戚なり」の部分。天皇がこうした発言をしたのは、桓武天皇の妃が多く百済王氏から出ていたことによる。

 「朝鮮と古代日本文化」の中で、上田正昭氏は要旨次の如く述べておられる。

 「百済からの渡来王族の中で最も有名な人が百済王敬福だが、彼の本拠が交野です。現在、枚方市に建てた百済寺の跡が遺っています。桓武天皇が長岡京を造る時に深く関係した人物に藤原継縄(右大臣)という人がいますが、その奥さんは敬福の孫にあたる百済王明信(前掲の「続日本紀」の記事に(従四位百済王明信に正四位下」と見える)という人です。明信の本拠は交野で、継縄の別荘も交野にありました。ですから、桓武天皇が行幸した時、百済王らが従っているのです。

 奈良から長岡京に移ることについては、そこが水陸交通の要地だということもあるが、交野の百済王族の役割も見逃せないと思います。桓武朝の女長官で、桓武天皇の寵愛を受けた明信という人物が大きな意味を持ってきます。」

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