黒住語録

黒住さんの名言録(抄)  2003年5月27日再発行
黒住師の名言から(その2) 薬師寺 慎一 編
『黒住さん』ノートより 薬師寺 慎一 編




黒住さんの名言録(抄)

黒住さんの名言録(抄) 
2003年5月27日再発行


★「じんじぇーめえった時にゃあ社殿のうしれえ回ってみるんじゃ。  なんかあるでー」
 神社に参拝したときは、社殿の後ろに回って観察することだ。新しい発見がある。

★「ありいて研究せにゃあおえんでー。じーとしてーて、ひとのけーたものーこびき、まごびきしてもなんもなりゃせんのじゃー。」
 自分の足で研究することが大切だ。書物だけで人の著作を引用しても無意味だ。

★「摂社や末社、地主神やこうがでえじなんじゃ。けえがほんまのしえーじんかもしれんけえのう。本殿なあ権力のじゃ。」
 摂社や末社、地主神を重視すべしで、これが本当の「祭神」かも知れない。本殿は中央の権力の押し付けだ。

★「一つとけえなんべでもいきあえんじゃ。前たあちごうたことが分かるかもしれんけえのー。」
 同じところへ何度も行くことだ。新しいことが分かるかも知れない。

★「吉備にゃあおーこかあーありゃせなんだんじゃ。合衆国ゆうたほうがえかろうが。どうなら。北からも南からもきとったんじゃ。しぇーでなかようしょうたんじゃ。大和やこうは喧嘩ばあしょうたんじゃ。」
 吉備に「王国」はなかった。合衆国だ。「北からも南からも」渡来してきて、大和と違って仲良く暮らしていた。

★「住吉やこうのけえ人はのう、瀬戸ねえけえと朝鮮けえきょうしきあよういかなんだんじゃ。吉備のけえ人は東シナけえをわたりょうたんじゃ。しえーで、揚子江までいきょうたんじゃ。けえ人とふねょー研究せにゃおえんでえ。」
 住吉(大阪方面)の海人は、瀬戸内海と朝鮮海峡を海路としていた。吉備の海人は東シナ海も海路とし、揚子江まで行っていた。海人と船の研究が重要だ。

★「吉備の御山に本拠をええとったけえじんは、合衆国の連中の用達航海業者じゃった。合衆国の連中は農耕中心のしえーかつーしょうたが、けえじんは陸には上がらんのじゃ。両者はべつのものじゃ。けえじんは鉄を運び、工人を連れてきょうたんじゃ。そりよう利用しょうたんが合衆国の連中じゃ。」
 吉備の中山を本拠にしていた海人は航海業を吉備合衆国から請け負っていた。吉備の人々は農耕中心の生活だが、海人は陸では生活していない。鉄を運んだり、技術者を連れてきたりして、吉備の人々の役に立っていた。

★「備前・備中・備後の吉備津宮はセットで考えにゃおえんで。でえが本家じゃやこう言うなあまちげえじゃ。加古川や敦賀も含めてセットで考えてゆくべきじゃ。」
 備前・備中・備後の吉備津宮は吉備としてまとめて考察するものだ。どちらが本家とかを語るのは間違っている。さらに、加古川(播磨)・敦賀も含めて統合的に考察すべきだ。

★「中世を研究せにゃおえんでえ。そうすりゃあ、こでえも近世も分かるんじゃ。」「中世を研究」するべきだ。そうすれば、古代も近世も分かるようになる。
(注)意味が良く判らない。

★「かみしもーきとる人間はなーんもいえりゃせんのじゃー。かえーそうなもんじゃのう。」
 公務員(学者や先生)は思っていることをそのままを語ることができない。ある意味でかわいそうである。

★「がくしゃたあ野蛮人の方が直観力があらあのう。」
 学者より、野蛮人(生活に密着して考察する人?)の方が「直観力」がある。観察力がするどいものだ。

★「なにゅうゆうても右と左があらーのう。しえーでええんじゃ。」
 あらゆることには正反対のことがあるものだ。それはそれで当然のことだ。
(注)至極当然で納得でき、至言である。

★「宗像の沖ノ島あ「海の正倉院」ようるが、吉備の御山あ「山の正倉院」じゃ。」
 宗像神社の沖ノ島は「海の正倉院」と言われているが、「吉備の中山」には山にある「正倉院」のように貴重な資料がたくさん眠っている。

黒住師の名言から(その2)

黒住師の名言から(その2)
薬師寺 慎一 編
(補足)黒住さんいわく、「金言」だそうです。



① イワクラぁのある神社は、ふりいん(古い)じゃ。明治以降の神社にゃあ、ありゃすめえが。
 
② テレビ塔の立っとる山にゃあ霊山がおええで。四方がよう見ようが。そりゃあ、四方からよう拝めるいうことじゃけえのう。
 
③ かあら(瓦)が出んからいうて、カヤぶきたあ決められんでえ。瓦ぁ移動するいうこともあるんじゃけえ。
 京都から奈良時代の瓦が沢山出土したことがあった。どうも奈良の瓦を流用したものと考えられる。
 惣爪の心礎付近から瓦が出土しない。これについて、黒住さんは、その西にある「日畑廃寺にもって行ったのでは」といわれていたそうです。

④ 霊山にゃあ二上山もあるでぇ。陰陽になっとるいえらあのう。せえで、三山になっとるなあ三尊じゃ。どっちもムスビじゃあ。けえがでえじ(大事)なんじゃ。ムスビは生産じゃけえのう。
 
⑤ イワクラぁイワクラぁゆうても、大けえばあじゃおえんのじゃ。なんか人工が、ありゃあええけど。
 人工 人の手が加わった「痕跡」(土師器が出るとか)。

⑥ 別所というなあ、工人のおったところじゃ。そかあ、税金がかからんのじゃあ。吉備のお山の有木の別所はおおけえでえ。そけえ、重源さんが宋から工人を連れてきとったんじゃ。吉備のアマベがおったけえ。せえができたんじゃ。
 
⑦ 吉備の中山ぐれえ、イワクラがおええ(多い)とかあ(所は)、めったにねえでえ。三輪山たあ、こっちの方がごちいでえ。せえのに学者は歩こうとせんのじゃ。見ても分かりゃあせんけどのう。
 
⑧ 吉備津神社いう名は、明治からのもんじゃ。キビノツノミヤが正しいんじゃけえのう。キビツグウもいけんのじゃ。ツノミヤでねえとおえんのじゃ。
 
⑨ アメノヒボコは、鉄ぅ持ってきたんじゃ。せえで、ヒメコソは、織物ぅ持ってきたんじゃ。けえでよかろうが。
 新羅の王子(アメノヒボコ)とその妻(ヒメコソ)。総社の石畳神社の北には、「姫社(ヒメコソ)神社」があります。

⑩ 阿曽(あぞ)は、鉄ぅしようたけえど、イモノじゃ。武器やこうは造りょうりゃあへなんだんじゃ。せえでええんじゃ。
 「せえでええんじゃ」や「そうじゃろうが」をうまく使われ、人を納得させるのが上手だったそうです。

⑪ 楯築の亀石ゃあ、わしがつけた名じゃ。あの文様は、スイジ貝が元じゃけえのう。せえで、ムスビになっとんじゃ。
 「スイジ貝」水字貝。鹿児島や揚子江の海岸で生息していたようです。隼人に関連するかもしれません。

⑫ 備中の国府は今、いようる所たあちがうでえ。掘りょうるけえど何もでめえが。国府はコウで、川じゃけえのう。ほんとおなあ(本当なのは)、どうも総社宮のところのように思えるんじゃ。
 
⑬ 三角はでえじ(大事)でぇ。△は火、▽は水。けえからの研究じゃ。特殊器台にもちいとろうが(付いているだろうが)。
 「けえからの研究じゃ」は、よく、おっしゃっていたそうです。

⑭ 古代の吉備は合衆国いうのがええんじゃ。吉備王国という人もあるけえど、王国はなかったんじゃ。カラもシラギもクダラもコウクリも来とったんじゃ。せえに、江南からも来たんじゃ。北からも南からものう。せえで、みんな仲ようしとったんじゃ。 大和でゃあ、喧嘩ばあしょうたわけじゃ。勝ったやつが親分になるんじゃ。せえが王国いうことなんじゃ。吉備にゃあ絶対的な力を持った者ぁ、おらなんだいうことじゃあ。まあ、何ういうても右と左があらあのう。
 「何ういうても右と左があらあのう」も、よく、おっしゃっていたそうです。

⑮ 一宮のオハタは、ありゃあ、船の帆でえ。アマベと関係しとるいえらあのう。そうじゃろうが。吉備のアマベじゃあ。こういうことが分からにゃあおえんでえ。

(つづく)

 「黒住師の名言から」と名付けた、薬師寺さんの編集した「語録」は、黒住先生の声の質までホウホツさせます。言うまでもなく、黒住先生の言葉の独自性ばかりでなく、内容の独自性もとらえられています。声に出して読むと楽しさ可笑しさが沸いてきます。
 薬師寺さんの音楽的なセンスは、微妙な発音のなまりまで捉えていて、しかもそれを覚えているのですネ。文字にされることで、私のような記憶力のない人間にも思い起こす機会が与えられるわけです。

(87・03・03 藤岡 章)

『黒住さん』ノートより

『黒住さん』ノートより
 薬師寺 慎一 編

1.イワクラ
★イワクラ信仰は弥生時代から今に至まで。三輪山は今もイワクラ信仰が続いている。他にも同じものあり。
★吉備津彦神社について
 平安時代に参詣したとすれば、イワクラがあるのみ。
 その岩は今の忠魂碑の台石。大正時代までは、今の位置の上方にあった。それを下ろして台石にした。
 この神社の本式の社殿建築は室町時代からか。神力寺は平安時代以前からあった。
 
2.吉備の中山を歩いた学者
★藤井駿先生 0回  ★鎌木義昌先生 1回
★近藤義郎先生 1回  ★間壁忠彦先生 1回
★土井卓治先生 1回  ★五来重先生 1回

3.吉備津宮の御神体
★備前吉備津宮 鉄鉱石
★備中吉備津宮 鉄剣
 吉備は鉄の国だから。鉄は尊いもの。

4.旧中山小学校の海抜
★2・9メートル。

5.棺ころがし(吉備の中山)
★カンコロ谷・カンコロバシ・カメコロバシ・オステヤマ。
 老人ホームの西(中央公民館の前方の谷)の絶壁。今は埋没した。

6.大守氏の墓地
★「荒神谷」ここは山神の人たちの墓地。
 大守氏の江戸以後の墓はここにある。神力寺の住職の墓もある。大守氏の江戸以前の墓は辛川にあり。

7.有木の人参畑
★有木別所(工房)の跡か。土師器の破片が出る。
★「にんじん」は「尼寺」か(これは永山卯三郎氏)。

8.法螺貝の井戸
★汲み川。これは杓で汲む。古井戸の形式なり。
 谷川の水は温度が変化するが、井戸のは一定。高麗寺に属した鍛冶の工房の跡か。

9.大坊の足跡
★これは池。細谷川の水源で、神池なり。ここは分水。

10.八徳寺の境内
★礎石8個を確認。その径は70-80センチ。地下30センチ。確認の後に埋めた。
★平安中期の瓦が出ている。中期であることは間違いない。

11.高麗寺
★山上の寺。瓦は平安中期までしか分かっていないが、創建は平安初期まで遡るか。
 この寺は中央政府とは無関係なり。在地の有力者、おそらくはカヤ氏の祈願寺か。

12.備前吉備津宮境内の変遷
★はじめ、今の忠魂碑の上にイワクラあり。
★奈良時代、その前面に神宮寺あり。
★鎌倉時代にいたり、神宮寺は廃退、その跡地に、向かって左に重源が常行堂を、右に栄西が法華堂を建てた。この二堂はセットのものである。故に、イワクラは二堂の背後にあったわけ。なお、二堂の跡地からは重源瓦が出る。

★室町時代には、既にこの二堂は廃退。その跡地に文明3年(1467)頃、大藤内が吉備津宮の本殿を建てた。これは八間四面の堂々たるもの。始めて社殿が出来たわけ。その費用は大藤内が密貿易でかせいだものと推測できる。なお、当時すでに、本殿の向かって右に神宮寺が復興されていた。その時期は室町初期か。当時の境内の様子が「古代御社図」から分かる。

★江戸時代に入り、池田光政が神宮寺などを壊した。元禄時代に池田綱政が神宮寺の跡地に立派な本殿を建てた。これが今の本殿である。
★室町時代に吉備津宮の社殿が並んでいた土地は、今は忠魂碑や空き地や畑となる。
昔のイワクラは下の段に下ろされて忠魂碑の台石となっている。下ろしたのは大正三年のことである。忠魂碑から下方を見ると、三段になっている。これが室町時代の境内。

13.神力寺
★神力寺は白鳳創建か。寺跡から重源瓦が出る。重源さんが修理したか。
 神宮寺と同じく、文明三年に立替えたと思われる。

14.庚申山
★頂上付近に弥生土器片散らばる。頂上全体が聖域なり。
★イワクラも各所にありて、拝む方向もいくつもある。
★造山古墳を造った連中が、ここで祭祀をした。庚申山は造山古墳の真北にある。

(以上は、ノート(1)より。1985・11・11-86・1・4)


15.美保神社
★阿曾にあり。左手に横穴式石室群あり。
★「美保」は出雲に関わるか。
★阿曾では鋳物を作る。これは平和。決して戦争道具(刀・剣)は作らない。

16.新山
★新山寺は平安初期からの山寺。
★成尋(じょうじん)が都から新山に来て、中国へ渡る。では、なぜ新山に来たか。新山には吉備の海人がいるので、そのルートで中国へ行けると考えてたから。なお、彼は砂金を旅費にしたと思う。

★新山からは、平安・鎌倉・室町の瓦が出ている。その間、寺があったということだ。
 礎石もある。特に、鎌倉時代に、重源が来て、浄土堂を建てた。彼は、東大寺・山口の阿弥陀堂・播磨の浄土寺などに、湯釜を設けた。人夫をムロで温風で休ませるため。彼は、これを中国で見てきた。したがって、そうした湯釜を造るのに、鋳物の技術が必要であったが、それを新山(阿曾)の鋳物師に求めた。

★黒尾に泉がある。2メートル四方。今も湧いている。そこから、山王宮へ登って行くと、道の左手に鎌倉時代の瓦が多数散らばっている所がある。それは重源瓦。そこが浄土堂の跡か。道の右手には井戸の跡もある。深さ1メートル、径も約1メートル。

★鬼の釜は、その中に入るのではなく、沸かすのである。その湯をひいて体を洗う。
★黒尾の木口氏の屋敷神のところにある石造物は、平安末の宝塔の一部か。中は空洞になっている。また、別の考えだが、鬼の釜の傍らの泉のところの石に彫られた文様と、この石造物の下部の大きさが一致するように思える。

17.直弧文
★もともとは結びの呪。
★水字貝かもしれん。古代の文様は抽象ではない。何か生活に直接関係したものから出ている。
 水字貝は江南では今も豚小屋に吊るしている。子豚が沢山生まれるようにという呪。

18.大守氏の出自
★一宮の大守氏は高句麗系か。

19.三輪山と吉備
★三輪山の連中は吉備から行った。

20.吉備の中山から出た土器
★中山から出た土器で最も古いのは弥生中期の土器。前期のは出ていない。

21.備中の国府
★備中の国府は総社宮のところだ。

22.山東半島
★ここは北からも来るが、南からも来るところ。

23.吉備と道教
 道教をせんといかん。これをやれば、今まで分からなかったことが分かってくるかもしれん。
 だが、岡山では「どうきょう」の発音をするものがおらぬ。ただひとり、薬師寺のみ。

24.造山古墳の周湟
★造山古墳には周湟がある。後円部の東の裾の辺りまで、元禄の頃には船が来ていた。

25.細谷川の別所
★別所の辺りには、平安・鎌倉・室町の瓦が多く出る。

26.中山の名
★「中山」という名の山は、岡山県下に、約30ある。いずれも祭祀に関係があるようだ。なぜ「なかやま」というのか研究せねばならぬ。

27.海人と中継ぎ貿易
★中東インド東南アジア江南日本・朝鮮。こうした地域を結び付けていたのは海人。彼らは陸に上がらず、船で生活する人たち。そして、中継ぎ貿易の形で文化をもたらした。

28.仏教の伝来
★公伝は6世紀だが、渡来人によって、それ以前に信仰されていた。おそらくは、4世紀には仏教は来ていた。

29.秦廃寺
★この寺は国家権力の寺ではない。民寺なり。

30.吉備の中山と条里制
★中山の東側(一宮)には条里の跡あり。西側に条里の跡がないのは何故か。川入の辺りまで水が来ていたから。

31.神カ寺と神宮寺
★はじめ一宮のボスが神力寺を建てた。藤原京の時代、大安寺の手が延びてきた。ボスは手を結ぶ。それで大安寺の田100町歩が吉備の中山の東にできる。
★都が奈良へ移る。今度は東大寺の手が一宮へ延びてきた。ボスは手を握る。それで神宮寺ができる。東大寺は大安寺の田100町歩を取る。

32.敷地村
★江戸初期、一宮に「敷地村」があった。今の山神の辺りをそう呼んでいた。これは、神の所在地の意味である。

33.高麗寺と重源
★重源は備前に22ケ寺を修復したというが、その一つが高麗寺かもしれない。なぜならば、人参畑から重源瓦が出る。

34.吉備津宮は寺か
★鎌倉時代の備中吉備津宮は寺かもしれない。なぜならば、重源が釣鐘を寄付しているから。

35.末社
★権力者は自分の支配以前の神を末社にしてしまう。

36.神社と寺
 古の神社は寺である。

37.神を祭るには
★神を祭る時は、①砂を盛るか②木を立てるか③イワクラか

38.春日大社の社殿
★社殿の最古のものは、春日大社か。それは平安中期のこと。

39.吉備の中山の裏と表
★南麓が表。これは古墳があるから分かる。北側は歴史時代になってから開けた。

40.吉備の穴海
★大窪の宗形神社までが、吉備の穴海。

41.有木別所の瓦
★東大寺の鐘撞き堂の瓦と、有木別所から出た瓦は同じもの。両者とも栄西。

42.有木別所の工人
★有木別所の工人は、重源が江南から連れてきた。ただし、これは工人の親玉。
★重源は各地に工人を残していった。それは後の修理のため。
★重源の別所は谷にある。そして、南無阿弥陀仏をひろめる。
★そして、その近くには必ず八幡さまがある。

43.小松橋
★一富の「小松橋」の「コマツ」は、「高麗(こま)の津(ツ)」かもしれん。今もその辺りの地名に「コマツ堂」がある。
★(参考)森浩一氏の本に言う。「福井県にいる私の知人が、『小松市』は『コマ』からの渡来人に関係した『津』ではないかと言ったことがある。」と。

44.天柱山の経塚
★経塚の石の配置は北九州のに似ている。更に経筒の形も北九州のに似ている。また、もしかすると、雨乞いの遺跡の可能性もある。つまり、雨乞いのための経塚ではないか。同じようなものが大宰府の近くの経塚にもある。栄西は宋から帰った時、五島(茶畑)へ行き、太宰府にも来ているので。

45.吉備津彦神社の資料
★康元元年(1256)の記録  山神山神力寺・在木山青蓮寺・八徳山大谷寺。
★文明三年(1471)の記録  山神山神力寺・有木山昌蓮寺・大谷山八徳寺。
★これらの寺の僧は、すべて備前吉備津宮の社僧なり。

(以上は、ノート(2)より。1986・1・9-86・4・22)


46.西辛川中村
★両墓制あり。江戸時代に難波一族が住む。
★辛川宿の館跡あり。平安時代の土器片が出ている。100四方。二方が堀になっている。もともとは四方が堀。中央に難波家あり。

《補足》りょうぼ‐せい【両墓制】
死者を埋めた埋墓うめばかのほかに、詣でるための詣墓まいりばかを別に作る風習。死穢の観念が強かったために起ったものという。[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

47.常行堂と法華堂
★今の忠魂碑の辺りに、向かって左手に常行堂、右に法華堂。前者は重源が、後者は栄西が建てた。両者はセットのもの。いずれも丈六の阿弥陀を祭っていた。以上は鎌倉時代のこと。
★常行堂と法華堂を一つにしたものが、浄土堂。新山・庭瀬堂・雄町の浄土寺などがそれである。

48.吉備の海人と江南
★吉備合衆国の連中と吉備の海人は別の者。合衆国の連中は農耕、海人は陸に上がらない。
★吉備の海人の根拠は、西は三原、東は赤穂・室津。中心は吉備の中山。
★吉備の海人は、大陸(江南)から製鉄の技術者などを連れて来る。こちらから持ってゆく物は金・銅・瀬戸内海の干魚・塩などであったろう。
★戦争などで流民となった水稲文化を持った人たちが、江南から吉備の海人に連れて来てもらった。
★水稲文化が朝鮮半島を経て日本に来たというのは間違い。直接来た。

49.倉敷市の笹沖
★「笹」は「ササ」。これは「酒」か「鉄」か。

50.楽楽福神社
★鳥取県日野郡日南町に「楽楽福(ささふく)」神社あり。「佐佐布久」神社も。 孝霊天皇を祭る。

51.吉備津の藤井氏
★(薬師寺の考え)「藤井」は「葛井」とも書いた。河内に「葛井寺」あり。これは渡来系。百済か。

52(1).諸(もろ)
★「古事記」に孝霊天皇の兄に「大吉備諸進(もろすすみ)」あり。これは何者か。誰も問題にしない。 わからんからだ。日向に「諸県(もろあがた)」あり。また、「諸県君(もろあがたのきみ)牛諸(うしもろ)」あり。この人物の娘が「髪長媛」なり。応神の頃の采女(うぬめ)。 (以上は薬師寺の考えなり)

52(2).御手(みて)
★「新撰姓氏録」に「阿多(あた)御手(みて)犬養(いぬかい)」とある。「御手」は隼人と関わりがあるか。備中高松に「ミテ」の地名あるは要注意(これは、薬師寺の考え)。

(以上は、ノート(3)より。1986・4・24-86・5・30)



53.可愛(えの)山稜
★鹿児島県川内市宮内町に鎮座する新田(にった)神社。祭神はニニギ。
 神社から可愛山稜に登る石段374段あり。全山、樹齢2000年の樟に覆われている。薩摩国の一宮。神社のある小山は神亀山(かめのかみやま)。山稜の地は、ニチギが高城宮をたてて政治したところと伝える。神社はその山頂にある。
★神社は古墳の前にある。つまり、古墳の前に神社が設けられたということ。
 (以上は、薬師寺の調査。86年5月30日記)

54.西花尻の正法寺の窯壁
★寺の境内(東北部)から窯壁(ようへき)片がかなりの数出る。焼けた土片である。須恵器を焼いた窯と思われる。もしかすると、奈良時代までさかのぼるかもしれない。それは日用・生活用の土器ではない。祭祀用か。

55.庚申山の堂を取り巻く石垣
★山頂の庚申堂の東へ30メートルほどのところに、古い石垣がある。もともとは山頂を取り巻いていた石垣かもしれない。山頂は聖地。
★もしかすると、ここは矢藤治山のような古墳の可能性もある。

56.余慶寺(上寺)
★同じ境内に、豊原北島神社あり。その真北に山ありて「北山さま」という大イワクラあり。

(以上は、ノート(4)より。1986・5・30-86・7・20)



57.備後の吉備津宮(薬師寺注意)
 十麻里二柱(とおあまりふたはしら)神社。境内摂社なり。祭神の中に注目すべき神名あり。以下の如し。
 〇ハエイロネ○ハエイロド
 ○吉備諸進命(この神を祭る神社は他に知らず)
 ○彦狭島(ひこさしま)命(この神を祭る神社も珍しい)。

★十二神社。前項の「十麻里二柱神社」は、吉備津彦の親戚の神とすれば、これは一族の神ともいうべきか。中で注目すべき神名は以下の如し。
 ○鴨別命○兄媛命○穴門武媛命。
★本殿の東北の隅に「艮神」を祭る。これを「吉備津彦の荒魂(あらみたま)」として祭っている点が要注意なり。
★本殿の隅に「巨智麿(こちまろ)」を「神官有木氏の祖神」として祭る。これはまことに驚くべきことなり。
★本殿は東向きなり。西(本殿の背後)に山あり。「虎睡山」と言う。その山の左の尾根を「トビの尾山」という。南門の外に「神池」あり。更に、その東方も山ありて、その中腹に「鏡岩」ありと。

★本殿の左手に社殿あり。「備中御前(ごぜん)」と言う。右手にも社殿あり。「備前御前(ごぜん)」と言う。
★社家は「有木(鬼)氏」なり。社僧は「品治氏」なり。

58.本宮山
★山頂は、御津郡加茂川町上田字本宮山2414番地にして、麓の化気(けぎ)神社の所有地となっている。その旨を記した石柱が立っている。
★向かって左から順に、海神社・大山神社(山神宮)・龍王社(石造)の三社の小祠が並んでいる。
★三社の小祠の背後に、「土まんじゅう」あり。横幅は約10メートル・奥行きは7メートルばかりなり。 今は土が崩れて低くなっているが、古くはもっと高く、この土饅頭が「神のヨリシロ」であったと思われる。イワクラも大事だが、「土饅頭」も大切である。

★戦後に火災ありて、山頂も焼けた。その時、ここから牛窓が見えたという。ここは備前第一の高山である。
★本宮山の東に旭川あり。山の北の川岸に「舟津」の地名。また、西の化気(けぎ)神社との間に「船たわ」の地名。山麓まで海人が来ていたことが推測される。

59.円城村の松尾神社
★本殿の背後にあるのは古墳か。土地の人は「グロ」と呼んでいる。
★1904年、オキラクで確認。確かに古墳のように思える。或いは経塚か。なお、「松尾」の地名は秦氏との関わりを思わせる。この点も重要である。この神社については、写真、及び、記録あり。

60.水主(みずし)神社
★四国の徳島県。式内社なり。別名を大内大明神ともいう。
★末社に水神社あり。井戸の上に祠あり。5月18日が「お水とり」。
★北に那智山あり。頂にイワクラ。西に本宮山あり。頂にイワクラ。その岩は上部が二つに裂けている。南に寅丸山ありて、頂に新宮神社が鎮座。イワクラはあったが、転げ落ちて今はない。
★以上は、宮司の大内氏より聞いたことなり。この地域は「大内郡」なり。郡名を背負っている「大内氏」は古いはず。

61.白鳥神社
★四国の徳島県。宮司の猪熊氏のお話によれば、今の白鳥神社の地はもともとは何もなかった。高松の松平侯が政治目的で建てたもの。
★境外摂社(末社か)に与治山神社あり。続いている二つの丘陵の一方の上に神社があり、一方の上に大イワクラがある。
★境外摂社(末社か)に田中神社あり。、古くは、これが白鳥神社であったか。あるいは、今の鶴田神社がそれか。

(以上は、ノート(5)より。1986・7・22-86・9・12)




62.日応寺の滝
★寺の背後方向に滝あり。不動滝というか。もしかすると、呪水のくみ取り場か。
★十二本木山は日応寺の奥の院か。頂に権現宮あり。北に大山、東に金山。

63.星神社の神池
★本殿の裏の三つの岩の左手に池あり。これは神池にあらずや。八徳寺・真如院・秋葉山・新山の山王社・大坊の足跡などの池と同じようなものか。水の上に神をお迎えする。

64.生石神社の神石
★ここは弥生の墳丘墓。楯築のより少し時期の下がる特殊器台・特殊壼の破片が出た。
★石柱で囲んだ中に、謎の石がある。大正14年に囲んだ。古老の言うには、この神石は「みもごる神」で、女が撫でた。砂石のようであったとも言う。

65.宿の方位石
★人が置いたものであることは確か。では、その目的は何か。
 夏至の日の出は加茂の造山古墳、夏至の日の入りは総社宮なり。楯築は東になる。
★別の仮説としては、条里制をするのに関連したものか。

66.総社宮の沼田神社
★沼田神社が先にあった。そこへ後から総社宮ができた。

67.吉備から大和へ
★楯築文化が大和へ入る。大和は吉備より遅い。箸墓やマキムクの直弧文は、吉備のより時期が少し下がるので、それが言える。

(以上は、ノート(6)より。1986・9・14-87・1・2)



68.芳賀清水の重箱岩
★岡山市芳賀(はが)清水に「重箱石」あり。ここは峠なり。近くに、清水寺・八大龍王神などあり。
 「重箱石」からは、東北の正面に金山が綺麗に見える。この岩は影向(ようごう)岩かもしれない。

69.備前の金山
★金山は三尊になっている。東の山・中央の山・西の山。
★中央の山頂の下に巨岩あり。これがイワクラか。
★中央の山頂付近に「堂敷(どうしき)」という字名あり。故に、古くは金山寺はここにあったかもしれない。
★金山の字「畑鮎」に、「御杖水」(岩艦に水の溜まる穴あり)・「潮満岩」(御杖水の下方200メートル)・「お迎え地蔵」(地蔵尊のある谷の上にしめ縄を張っている。この縄の下を金山川が流れ、旧道が通っている)などあり。
 「畑鮎」の古老の名は、黒石春一氏。TELは(******)なり。

★畑鮎に八幡宮あり。金山を拝むか。また、薬師院あり。ただし、ここは畑鮎ではないかもしれない。笠井山か。道路を隔てて、上方にイワクラあり。その上に石仏を祭る。
★金山に「重源池」あり。重源さんは金山に来ている。この池の右上の山中にイワクラあり。
★高野尻にも八幡宮あり。

70.福山市の有木氏
★福山市赤坂町赤坂(駅前)の富宗(みやそう)正人氏に聞く。これは、87年2月のことなり。
 有木氏は、吉備の中山の有木から、備後の豊松村に来た。
 この村には大字「有木」の地名がある。今も有木小学校・有木農協がある。更に、有木姓の人もいたが、今は福山市に出て学校の先生をしている。
 有木氏は、江戸前期、赤坂に来た。沼隈郡東部13ケ村の大庄屋であった。大名が宿泊したほどの家。菅茶山・頼山陽などとも親交があった。今は、岡山県赤磐郡山陽町に出て精神科の病院を経営している。家紋は五三の桐。

71.山部(やまべ)
★「山部」を研究すべし。「海部」とセツトで研究すべし。「山部」は船を造ることに関わるから。また、鉄にも関わるから。
★坂田のキントキは「斧」を持っていた。「斧」はノコギリより古い。

72.川入の八幡宮
★川入の八幡さんは、「日信さま」(古い祭祀遺跡か)を通して、「飯山」を拝む遥拝所なるべし。

(以上は、ノート(7)より。1986・12・26-87・3・17)



73.伊勢の朝熊山(薬師寺の知識)
★一支峯を「経ガ峯」と言う。金剛証寺あり。経塚あり。
★朝熊山は、内宮の東に当たる。斉宮からは冬至の日の出線。イラコに近い神島からは冬至の日入り線。
★伊勢の月読宮は四殿からなる。四殿が東西に並んでいる。古殿地とは南北に成っている。

★以下は、伊勢神宮の内富のネギさん「神原氏」の説明による。
○別宮の滝祭宮には社殿がなくて、3メートル四角の土地の周囲を石積みで囲い、その上にまた岩で囲った段を設け、その中央に高さ約50センチで三角に尖った岩を埋めてある。これが御神体。更に、これと同じものが正殿の右に五つほどある。
○正殿の心御柱の古いものは社外には出さない。だが、どうするかは言えない。
○心御柱は正殿のみ。他は焼き物(これは確かか)。

74.矢掛町小田大字有木谷
★有木谷は小田川を望む。東に観音山あり。その周囲に寺院・神社など10あまりがある。観音山は別名を岩屋山ともいう。山頂に八畳岩ありて、そこに龍王を祭る。大正の頃には雨乞いをしていた。山腹に岩屋山金龍寺(禅宗)あり。この寺の辺りも岩多し。

★「ゴウヤ」の井戸あり。枯れたことなし。この水で洗えば綺麗になるという。
★山部耕樹(こうじゅ)氏あり。古くは、有木谷の一番奥に家があった。今一軒川上氏あり。注意すべきは、この二氏は同じ株内で家も近くにあるが、別の小祠を拝んでいること。大字全体としては、また別の氏神を祭っている。

75(1).服部の金比羅宮
★服部に金比羅宮あり。山腹に鎮座。社殿は周囲を岩で囲まれている。その山頂に巨岩あり。イワクラなるべし。

75(2).木村山
★かなり登るのにしんどい。山頂に大イワクラあり。薬師如来を祭る。
★完全なるクグリ岩様の穴道あり。これ疑う余地なし。
★この山は、式内社に比定されている神(みわ)神社の神体山なるべし。山の姿の美しいことは抜群である。
(或る郷土の歴史家あり。薬師寺を案内すると。四輪駆動なら山頂まで行けると。)

76.高末の明剣神社
★巨岩あり。マガイブツを彫る。イワクラなるべし。向かって右は「役の行者」なるべし。左手に経巻(孔雀明王経なるべし)、右手に錫杖(しゃくじょう)、一歯の下駄を履く。左手は不動明王ならん。その背後は日天・月天か。

77.鵜江神社
★式内社鵜江神社に比定される鵜江神社。西川面に鎮座。
★神社の真北に山あり。山頂にイワクラ。

78.豊松村の有木
★広島県神石郡豊松村有木。八幡宮が三社あり。
①有木村の花済に。花済(または竹迫山)八幡宮という。有木氏が建てたという。
②有木村の西有木に。猪鼻八幡宮。この神社を「西宮」とも言う。城主の有木久親が建てた。
 今の宮司は次重(じじゅう)春雄氏。この人の住所は神石郡豊松村有木。
③有木むら東有木に。亀甲山八幡宮。「東宮」とも言う。
 願主は尾首城の城主有木久親・中山城の城主有木貴親。
★ここの有木氏は備中から来たと伝えられている。
★豊松村は有木村と中山村が合併したという。「有木」も「中山」も極めて要注意。
★帰途、いろいろな名言が出る。

○「旧道には寺や神社がある。新道にはうどん屋や喫茶店がある。」
○「城址の山は霊山が多い。」
○「県博の学芸委員は、物を並べるだけじゃ。」

79.造山は二山をつないだものか
★加茂の造山古墳は、二つの丘を繋いだものかもしれんでえ(いやはや、びっくりぎょうてん)。

80.安仁神社
★安仁神社の四隅方向に山あり。
○艮(うしとら)方向、高さ110メートルの「硫黄山」。その麓にテーブル状のイワクラあり。
 その山頂近くに巨大なイワクラあり。
○巽(たつみ)方向、高さ88メートルの「網掛山」。神社・イワクラ・マガイブツなどあり。
○坤(ひつじさる)方向、高さ150メートルの「山神山」。
○乾(いぬい)方向、高さ162メートルの「御蘇?山」。

81.天柱山から出たという古鏡
★三角縁四神四獣鏡。昭和32・5・14 岡山県指定49号。直径6寸8分。白銅製。今も顔が映る。
★児島郡林の熊野神社神主大守哲氏の所有。大守氏の先祖は池田光政の時、備前一宮から当地に来て、代々神主。その後、一宮の大守氏の娘が熊野神社神主に嫁ぐ時、持参品として、この鏡を持ってきた。

★鏡の箱の表には、「明和四年(1774)丁亥才 二面之内神鏡 西嶽記 六月初七日」と。箱の裏には、「這鏡 明和三丙戌九月 当山頂之古窟 現出。」と。
 「当山頂之古窟」とある「当山頂」は、今の天柱山の山頂かと思われる。今、そこには、中央に天明年間の雨乞いにあたり、岡山市の常磐屋が奉献したという八大龍王の祠(陶器製)がある。その両側に12世紀の経塚があり、立派な経筒が出ている。一つの推測として、二つの経塚に挟まれた場所(八大龍王の祠)の下に、前記の「古窟」があったのではないかと考えられる。
 古い順に並べれば、「古窟」(その中に三角縁神獣鏡)、次が12世紀の経塚、次が天明年間(江戸時代)の八大龍王の祠ということになる。

82.特殊器台の据え方
★上に壷を載せて、下部(裾部)を土に埋めたものか。そのように推測される理由は、裾部がよく残っているから。

83.近藤氏より聞く
★1987.6.10、黒住氏と共に、岡山大学に近藤氏を訪ねる。資料館を案内してくれる。いろいろ質問する。
★特殊器台は四国には出ていない。
★朱は、楯築では死体のところと、立石(南石)の根元のみ。器台や壼などの赤色は、全てベンガラ。縄文土器には朱を塗ったものがある。弥生土器や古墳時代の土器のは、全てベンガラ。

★特殊壼の底穴は、焼いた後に開けたもの。穴の大きさはいろいろ。祭祀の後に開けたものか。だが、焼く前に開けたのもある。
★土中から出た亀石。石が風化しているので、風化していた石に彫ったものか。
 全ての破片が出ていないので、他所で割って、持ってきたものか。
 御神体の亀石のような「顔」は彫られていない。但し、石は両者同じ。
★楯築の勾玉・管玉は、共に弥生時代で最大級のもの。

(以上は、ノート(8)より。1987・3・23-87・6・17)



85.人は高い所から低い所へ下りて来る
★山の上の家は古い。人は次第に下へ下りてくる。始めに低い所が開いてから、次第に高い土地を開いてゆくのではない。谷川の上流が先に開けた。

86.「社殿の後ろへ廻る」
★黒住氏曰く。「社殿の後ろへ廻ってみよというのは、名言ではなくて、金言じゃ。」と。

87.古墳は以前の祭祀場か
★古墳ができる前は、その場所は祭祀の場であったか。そうした場所に古墳が造られたのである(薬師寺の言)。
★高松城の場所は、以下の如く変遷したものか。

○祭祀場
○古墳
 (中期の前方後円墳。周濠があった。そこから弥生土器の破片が出ている。また、円筒埴輪の突帯が出ている。)
○室町時代には寺があったか(軒瓦が出ている。それには、「阿弥陀仏」の文字が入っている。
○高松城が築かれた。

88.諸上の七社宮
★諸上の七社宮は、備中総社宮と経山との中間にある。
★神主は阿部氏なり。
★この神社の土塀には、弥生土器・須恵器、中世の土器などの破片が混じっている。この神社の付近に当時既に何かがあった証拠である。

89.鏡の大きさ
★中国の古鏡は14センチから20センチまで。三角縁神獣鏡は23センチ以上。
 顔を写してみて、大きさとしては、14センチくらいで十分。これが実用の鏡の大きさと思える。

90.呉の工人
★三国の中の呉(ご)の滅亡は、A/D280年。その直後、呉の工人が日本に来た。ただし、朝鮮半島経由。(以上は、松本清張の説なり。)

91.中央の学者
★中央の学者をチョット招いたら吉備のことが分かると思うのはバカじゃ。

92.吉備の中山の須恵器の窯跡
★正法寺と新宮の境内に、須恵器を焼いた窯の跡がある。
 いずれも「窯壁」が出ているのでそれが分かる。正法寺のは奈良時代から平安にかけてのもの、新宮のは平安中期から鎌倉にかけてのものと思える。正法寺のは小さい窯であったと思われる。

93.瓦は移動する
★京都市文化史料科館長の木村捷三郎氏の話。
 「地下鉄をつけた時、京都市の地下から平安以前の瓦が大量に出た。平安京ができる以前の古い時期に既に京都に寺があったのかと考えたが、同時代の土器は出ない。たまたま京都に行った黒住氏に意見を聞いた。黒住氏は、奈良の寺の瓦を運んだのでしょうと言った。木村氏もそれに賛成した。つまり、『瓦は移動する』ということだ。

★備中の津寺の跡は、塔の心礎のみで、他の礎石や瓦は出ない。一方、日畑廃寺には礎石や瓦が出るが、これらはもしかすると津寺の礎石や瓦ではあるまいか。両寺はあまりにも距離が近すぎる。寺のスポンサーを豪族とすれば、こんなに近い場所に二つの豪族がいたとは考えられない。
 初め津寺(塔の心礎の場所)を建てたが、そこは足守川の水がのるので、日畑廃寺のところへ移建したのかもしれない。「瓦は移動する」ということからすると、これも一つの推理と言えよう。奈良博物館の光森氏も同じような意見であった。

★(以下は薬師寺の考え)『岡山県通史』によれば、津寺の場所(約100メートル四方)は、明治初期、畑を水田にするため、1メートルばかり地下げしたことが分かっている。瓦などは、その時、どこかへ運ばれて無くなったのかもしれない。また、100メートル四方というのは、当時の寺の境内の平均的な広さと符号が合う。そうだとすれば、明治までは、寺の境内がなんとなく残っていたという推測もなりたつ。加えるに、塔の心礎の位置は創建時のままで、移動した形跡はない。
 そうだとすれば、ここに大寺が建てられたことは、確かである。もしも、日畑廃寺のところへ移建したのならば、心礎だけを元の場所に残した理由も説明せねばならない。岡山県下でも稀に見る立派な心礎である。残してゆくのは、おしい。また、「水がのるから」というのも説得力がない。いくら昔のことといっても、その場所が水がのるかのらないかくらいのこことは、寺を建てる前から分かっていたはずである。 古代人を馬鹿にしてはいけな
い。現代人よりも賢かったかもしれないのである。

 また、日畑廃寺は「日畑廃寺」と言っているが、誰がそのように言いだしたのであろうか。本当に「廃寺」なのか。もしかすると、官衙、例えば、郡衙の跡かもしれないのである。塔の心礎が出れば、寺であることは動かないが、日畑廃寺からは、礎石は出ているが、心礎が出たという話は未だ聞いたことがないのである。

94.備中吉備津宮の神宮寺
★備中吉備津宮の神宮寺は、津寺か日畑廃寺か。もしかすると、津寺は「吉備津寺」という名であったかもしれない。「津寺」は、後の名であることは明らか。
★備中吉備津宮の神宮寺は、もしかすると、大崎廃寺であったかもしれない。白鳳の瓦が出ているから。
★(薬師寺の考え)大崎廃寺も可能性が大きい。なぜならば、吉備津宮はカヤ氏の氏神であり、大崎廃寺はカヤ氏の氏寺の可能性が大きいからである。大崎廃寺からは、栢寺廃寺と同じ瓦が出ている。

(以上は、ノート(9)より。1987・6・21-87・10・18)


95.重源の『作善集』に見える別所
★「庭瀬堂」は今の真如院にあり、「浄土堂」と呼んでいた。
 「備中別所」は今の新山にあり、「浄土堂」と呼んでいた。ここには鋳物師がいた。
★修繕したという「豊光寺」は、今の邑久郡邑久町豊原の大賀島寺のこと。重源瓦が出る。

96.辰巳神社
★大安寺高校の裏に当たる。備前一宮を勧請したという。一宮から「タツミ」なり。
 水平なる田の中にあり。元は微高地なるか。猿田彦を祭る。

97.延寿院で聞いた話
★西阿曽の延寿院の住職の近藤兼祐氏の話。この人は、考古学的知識を持ち、土器や瓦などを集めている。また、伝承などにも興味を持つ。以前、蒙古に潜入した経験もある。
★この寺は、元は岩屋にあったが(岩屋寺)、不便なので、元禄の頃に今の場所に下りた。
★阿曽は、古来、鋳物で有名。理由は、「ハジロ土」が出るから。これは黒い粘土。鋳物を作る時に、この土で型を作るのである。ここの鋳物師には、林氏・富岡氏・貝原氏などがある。林氏の系譜は南北朝までは上るのではないか。
★岩屋寺を開いたのは善通大師で、この人が経文を埋めて経塚を作ったのが「経山」と伝えられている。なお、経山は南北朝か戦国の頃には山城があったとも言う。
★岩屋に「潮干る岩」がある。穴が開いていて水が溜まる。新山には「潮満つ岩」があり、これも水が溜まる。

98.長良山
★長良山から常平通宝が出た。弥生土器も出た。三彩も出た。ここには古墳もある。
★この山も周囲の聖なる山を拝む遥拝所か。

99.金光町方面で
★「タザー様」(タダラとも)。そこは崇るといって、人が近づかない。草も刈らず、木も切らぬ。黒住氏言う「屋敷の跡の屋敷神か。」と。
★大老神社。山の中腹にあり。展望よろし。神社の玉垣は占見の「阿部氏」が寄付している。
★占見の大宮神社。神職は唐川氏。「からかわ」と言うか。

★道満池。15メートル四方なり。前項の大宮神社の北にあり。池の中の巨岩は、イワクラの可能性あり。「ボーズ岩」とか、定かならず。金の鳥が飛んだという伝承あり。
★占見には安倍セイメイの墓・道満の墓などというものあり。また、セイメイの産湯の井戸もあり。土地の人は、毎年10月10日に、祭りをしている。「セイメイさま」とか「ドウマンさま」とか呼んでいる。
★磐岩神社。神社の背後の山上に、巨大な岩あり。イワクラなるべし。

100.靹の仙酔島
★沼名前(ぬなくま)神社。式内社? 仙酔島は、沼名前神社の真東にあり。
★仙酔島には、墓がない。聖なる島か。(薬師寺思う)もしかすると、ずっと以前は葬地であったか。

(以上は、ノート(10)より。1987・11・5-88・5・2)



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