未出版論文

■未出版論文
 ・ヒレ 薬師寺慎一 1997年記 初公開
 ・
古代人と赤色 薬師寺慎一 1996年記 初公開

『ヒレ』

『ヒレ』

①「古事記」に見えるヒレ
②「日本書紀」に見えるヒレ
③「風土記」に見えるヒレ
④「万葉集」に見えるヒレ
⑤「旧事本紀」に見えるヒレ
⑥「続日本紀」に見えるヒレ
⑦「延喜式」に見えるヒレ
⑧「倭名鈔」に見えるヒレ
⑨「皇太神宮儀式帳」に見えるヒレ
◎まとめ


○ヒレ
 古典に「ヒレ」という語が出てきますが、それは単なる飾りのようなものか、それとも何か呪的な意味を持ったものなのでしょうか。また、女性専用のもので、男性には関係のないものなのでしょうか。また、その源流は朝鮮半島方面のものか、それとも南方的なものか、或いは日本列島独自の所産なのでしょうか。また、寺院の天女像にも「ヒレ」に似たものを見かけるので、仏教とかヒンズー教などとも何らかの関わりを持っているものなのでしょうか。

★ 「広辞苑」には、次のように、二つの「ヒレ」が見えています。
○ ひれ(領巾・肩布)。上古から中古にかけて用いられた女子服飾具の一。頚(くび)へかけ、左右へ長く垂らした布。後世、婦人の着用する裳の掛帯および大腰はその遺制といいつ。万二「白たへのあまひれがくり」。

○ ひれ(比礼)。上古、害虫・毒蛇などを払うまじないに用いた布様のもの。記上「蛇の比礼… 呉公蜂(むかでばち)の比礼を授けて」。

★ 「大百科事典」(平凡社)には、大略次のように説明されています。

○ ヒレ(領巾)女子服飾具の一。首へ懸け左右へ長く垂らした布。上代より用いられ、中古には儀礼の具として正装に用いられた。「日本書紀」に領巾また肩布。「倭名鈔(には「領巾、日本紀私記云、比礼、婦人頂上飾也」とある。「古事記伝」には「ひれは振手(ふりて)の約で、もとは振る料のものであろう」とあるが、「古事記」・「万葉集」などに、虫を払い人を招くために領巾を振ったことが多く見え、のち膳夫・采女など、食膳に侍するものが領巾をかけたことを見れば、これも食膳上を払うために振ったものと思われる。

 かく振るためのものが、後には装飾と変じたものであろう。その製作材料は、「延喜式」鎮魂祭官人の料に御巫、領巾紗七尺、また六尺別九尺とあり、中宮正月の料に領巾四条料、紗三丈六尺別九尺とあり、「北山抄」に羅を以て作る趣に見え、薄物の長いものであったことが知られる。また、「万葉集」に「たくひれの白」などと、白または白いものの枕詞に用いられているところを以て見ると、白地ものが広く行われたことを察することができる。中には錦の如き高貴な品質のものを以て作ったものもあったと見え、「倭名鈔」にその趣に記されている。平安時代に入ると領巾は女子の正装の具にもちいられたことが時の物語の随所に見える。しかし後世亡んでその真の形態を明らかにすることは出来なくなったが、あるいは後世の懸帯は領巾の遺制であろうと主張するものもある。

 以上からすると、「ヒレ」は本来は「振る」ものであり、呪的なものでしたが、平安時代には既に飾りになっていたようです。では、古典にはどのように記されているのでしょうか。直接、古典から「ヒレ]を探し出して研究してみることにします。


①「古事記」に見えるヒレ
(以下の書き下し文は小学館発行「古典文学全集」の「古事記」による)

★ ①大国主神の事績の段
 「その大神出で見て告りたまはく、『こは葦原色許男命(あしはらしこをのみこと)といふぞ』 とのりたまひて、即ち喚び入れて、その蛇の室(むろ)に寝しめたまひき。是にその妻須勢理毘売命(すせりびめのみこと)蛇のひれをその夫に授けて云はく、『その蛇咋(く)はむには、このひれを三たび挙(ふ)りて打ち撥(はら)ひたまへ』 といひき。(中略)亦来る日の夜は、呉公(むかで)と蜂との室に入れたまひしを、亦呉公・蜂のひれを授けて、先の如教へき。云々 。」

 文中の「その大神」はスサノヲノミコト。「葦原色許男命」はオオクニヌシノミコト。「須勢理毘売命」はスサノオノミコトの娘で、オオクニヌシノミコトの妻。この話の概略は、スサノオノミコトがオオクニヌシノミコトを蛇の部屋・ムカデや蜂の部屋に入れて困らせようとしたのを、スセリビメノミコトが「ヒレ」を渡して助けるというものです。ここでは「ヒレ]は明らかに呪力を持つものとして扱われています。

★ ②応神天皇の段
 「天之日矛(あめのひぼこ)の持ち渡り来し物は、玉津宝といひて、珠二貫、また振浪(なみふる)ひれ・切浪(なみきる)ひれ、振風(かぜふる)ひれ・切風(かぜきる)ひれ、また奥津鏡・辺津鏡、併せて八種なり。云々 。」
 アメノヒボコは周知の人物です。彼が持ってきたものは、玉が二、ヒレが四、鏡が二です。その中の「ヒレ」は「浪(なみ)」を振るい起こしたり、静めたり、あるいは「風」を起こしたり、静めたりする呪力を持っているようです。ということは、航海に必要な呪具であり、海人にとって最も重要な宝物と考えられます。① のスサノヲノミコトが朝鮮半島と関係が深く、アメノヒボコが渡来人であることを考え併せると、「ヒレJ は日本列島の外からもたらされたものである可能性もあります。


②「日本書紀」に見えるヒレ
 以下の書き下し文は岩波発行「古典文学大系」の「日本書紀」による)

★ ①崇神天皇の段
 「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、聡明く叡智しくして、能く未然(ゆくさきのこと)を識りたまへり。すなわちその歌の怪(しるまし)を知りて、天皇に言したまはく、『これ、武埴安彦(たけはにやすびこ)が謀反けむととする表(しるし)ならむ。われ聞く、武埴安彦が妻吾田媛(あたひめ)、密に来たりて倭(やまと)の香山(かぐやま)の土を取りて、領巾(ひれ)の頭(はし)につつみて祈(の)みて日さく、これ、倭国の物実(ものしろ)とまうして、即ち反りぬ。ここを以て事あらむと知りぬ。早に図るに非ずは、必ず後れなむ。』とまうしたまふ。云々 。」

 ヤマトトトヒモモソヒメは周知の人物。この話の前には、一少女が歌を歌うところがあり、文中の「その歌」はそれを指しています。ヤマトトトヒモモソヒメは、その歌が武埴安彦の謀叛の徴であることを見破るのです。ここで重要なのは、倭国をのりとろうとする武埴安彦の妻アタヒメが、「倭国の物実」として「香山の土」を「ヒレ」に包んで祈ったという点です。なぜここに「ヒレ」が用いられたかが問題です。「ソデ」に包んだのではありません。アタヒメもモモソヒメ同様に巫女と考えられる人物であることを考え併せると、「ヒレ」は呪力を持っていたのではないのかと推理されます。

 なお、吾田媛に関しては、前にお話したことがありますが、その要点は、彼女が隼人の女性であり、巫女的首長であった可能性が強いということでした。してみると、「ヒレ」を用いるのは隼人の巫女なのでしょうか。そしてまた、隼人と関係があるということになると、「ヒレ」は長江下流地域、あるいは南方と関係がある可能性もあることにもなります。なお、「ヒレ」と隼人の関係については、後述⑦ 「延喜式」の項参照。

★ ②履中天皇の段
 「時に近く習(つか)へまつる隼人あり。刺領巾(さしひれ)といふ。云々 。

 これは履中天皇の弟住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が謀叛を起こした時、後の反正天皇が皇子の近習サシヒレをそそのかして皇子を殺させたという話の一部です。サシヒレは、その主人を殺した後、その命令者反正天皇に殺されるのです。「古事記」にもソバカリという名になっていますが、同じ内容の話が載っています。ここでの問題は、サシヒレという人物が隼人であること、及び、この人の名に「ヒレ」が付いていることです。

 この人は男性と考えている人が多いようですが、もしかすると巫女的女性かもしれないと私は思っています。「ヒレ」は女性の呪具である場合が多いのも理由の一つです。サシヒレが住吉仲皇子の近習だというのは、呪的な役目で皇子の側近くに仕えていたのではないでしょうか。反正天皇がサシヒレに暗殺を依頼したのも、住吉仲皇子の信頼が極めて厚かった証拠と思えます。つまり、サシヒレは巫女的近習として住吉仲皇子に仕えていたということです。

 なお、住吉仲皇子が隼人・吉備の連合政権であった応神王朝の水軍の頭目であった可能性の大きいこと、及び、その水軍とは住吉の地を本拠としていた隼人の海人集団を中心とするものであったことなどに関しては、小著「古代日本と海人」の中で述べたことがあります。その皇子の近習がサシヒレです。「ヒレ」は隼人に関係が深いように思われます。
 また、皇子が海人の元締だとすれば、前記の如く、アメノヒボコの宝物の中に「振浪ひれ・切浪ひれ、振風ひれ・切風ひれ」があったことと考え併せて、「ヒレ]は海人に関わる呪具であった可能性は更に大きいことになります。

★ ③ 欽明天皇の段
 「調吉士伊企儺(つきのきしいきな)(中略)殺されぬ。(中略)その妻大葉子(おほばこ)、亦並に禽(とりこ)せらる。槍然(いた)みて歌いて日はく、韓国の城の上に立ちて大葉子は領巾(ひれ)振らすも日本へ向きて。或有和へて日く、韓国の城の上に立ちて大葉子は領巾(ひれ)振らす見ゆ難波へ向きて。」

 「調吉士伊企儺」は新羅軍に捕らえられ、降伏せず殺されたが、その妻の「大葉子」も捕らえられたのです。その彼女が日本へ向いて「ヒレ」を振ったのですが、この場合も単なる祖国に対する別れの気持ちだけでなく、やはり霊的・呪的な意味が読み取れるように思えます。「ヒレ」を振るのは袖やハンカチを振るのとは違うのではないでしょうか。

★ ④ 天武天皇の段
 「膳夫(かしはで)・采女(うぬめ)等の手綴(たすき)・肩巾(ひれ)(肩巾、これをば比例といふ)並びに服ることなかれ。」
 この記事は天武天皇の十年に、朝廷内部の服装を改めた時のものですが、ここでの「肩巾(ひれ)」は「采女」などが着用するものです。この場合の「ヒレ」に呪的な意味があるかないかは不明です。


③「風土記」に見えるヒレ
 (以下の書き下し文は岩波発行「古典文学大系」の「風土記」による)

★ ① 「肥前国風土記」松浦郡の段
 「摺振(ひれふり)の峯。郡の東にあり。烽(とぶひ)の處の名を摺振の烽といふ。大伴の狭手彦(さでひこ)の連(むらじ)、発船して任那(みまな)に渡りし時、弟日姫子(おとひひめこ)、此に登りて摺(ひれ)を用ちて振り招(を)きき。因りて摺振の峯と名づく。云々 。」  「大伴の狭手彦」は宣化天皇の命令で百済を助けるため任那に渡った人です。このことに関しては同じ「肥前国風土記」中の「鏡の渡」の所に記事があります。岩波の訳注によると、「摺振の峯」は「唐津市の東境、浜崎玉島町との境の鏡山(二八四米)の別名、松浦潟の海岸に近い」ようです。そして、訳注は、「摺」は「首から肩に掛けて垂らす婦人の装身用布帛。領巾(ひれ)」と説明しています。

 更に、「肥前国風土記逸文」にも次のように同じような記事が見えています。

★ 「松浦の県。県の東六里にひれふりの岑(みね)あり。(中略)昔者、檜前の天皇のみ世、大伴の紗手比古(さでひこ)を遣りて任那を鎮めしめたまひき。時に命を奉りてこの墟(をか)を経過ぎき。ここに篠原の村に娘子あり、名を乙等比売(おとひめ)といふ。
 容貌端正しく、ひとり国色たりき。紗手比古、すなはちよばひて成婚ひき。離別るる日、乙等比売、この峯に登り望けて、ひれを挙げてふり招(を)きき。因りて名となす。」

 岩波の訳注によれば、「檜前の天皇」は宣化天皇、「乙等比売」は「風土記」には「弟日姫子」とあり、「万葉集」には「松浦佐用比売」とあります。

 以上のように、岩波の訳注では、「ヒレ」を装身具としていますが、「弟日姫子」が山の上から船上の「狭手彦」に向かって「ヒレ」を振ったのは、別離に際してハンカチを振るのと同じような意味しか持っていなかったのでしょうか。「万葉集」には夫婦が別れる時に「袖(そで)を振る」という記事が随所に見えます(後記)。だが、「ソデ」と「ヒレ]は別のものです。「ヒレ」を振ることには、例えば「ヒレでふり招いておけば、必ず無事に帰ってくる」といったような何か呪的な意味があったのではないでしょうか。

★ ② 「播磨国風土記」賀古(かこ)の郡の段
 「この岡に比禮墓(ひれはか)あり。褶墓(ひれはか)となづくる所以は、昔、大帯日子命(おほたらしひこのみこと)、印南(いなみ)の別嬢(わきいらつめ)を跳(つまど)ひたまし時、云々 。(中略)年ありて、別嬢この宮にかくりましししかば、やがて墓を日岡に作りて葬りまつりき。その尸(かばね)を挙げて、印南川をわたる時、大きな瓢(つむじ) 、川下より来て、その尸を川中にまき入れき。求むれども得ず。但、匣(くしげ)と褶(ひれ)とを得つ。即ち、この二つの物を以ちてその墓に葬りき。故、褶墓と続く。云々 。」

 文中の「この岡」は「日岡」のことで、岩波の訳注によれば、兵庫県加古川の左岸、加古川市加古町にあります。同じく「大帯日子命」は景行天皇、「印南の別嬢」は景行天皇の皇后、「印南川」は今の加古川のことです。そして、「摺」に関しては前掲「肥前国風土記」の訳注に見える説明と同じように、「首から肩に掛け垂らす婦人の装身用の布常。領巾(ひれ)」と説明しています。

 人が死んだ時、その屍(しかばね)を遺さないのを、道教では「尸解」と言います。屍は遺さないが、例えば「杖」・「冠」・「沓(くつ)」・「衣」などを遺すのです。記紀にもそうした記事が所々に見えます。そうした観点からすると、別嬢の屍がなく、匣(くしげ)と褶(ひれ)だけが川から見つかったというのは興味をひかれるところです。それはさておき、ここでは「ヒレ」が問題です。「匣と褶」が見っかったのに、「匣墓」とは呼ばず「褶墓」というのも、「ヒレ」が重視されていた証拠とも解されます。

 ところで、この「印南の別嬢]に関しては、同じ「播磨国風土記」印南郡の段に次のように記されています。「郡の南の海中に、小島あり。(中略)志我の高穴穂の宮に御宇しめしし天皇の御世、(中略)丸部(わにべ)臣等が始祖比古汝茅(ひこなむち)を遣りて、国の堺を定めしめたまひき。その時、吉備比古(きびひこ)・吉備比売(きびひめ)二人参迎へき。ここに比古汝茅、吉備比売に要ひて生める児、印南の別嬢、この女の端正しきこと、当時に秀れたりき。云々 。」

 岩波の訳注によれば、「志我の高穴穂の宮に御宇しめしし天皇」は成務天皇、「吉備比古・吉備比売(はこの地を領有していた土着豪族の首長、「参迎へき]は大和朝廷に帰服の意を示したことです。

 さて、ここで注意しなければならぬ点は、第一には「吉備比古・吉備比売」の二人が土着の首長であること。第二には、この二人は夫婦ではないこと。それは天皇の差し向けた「比古汝茅」が「吉備比売」と結婚していることからも分かります。記紀や「風土記」には、こうした男女ペアーの土着首長がかなりの数出てきます。ヒミコの身辺にも一人の特別な男性がいたことは「魏志倭人伝」に見えています。そして、こうした場合、女性の方は巫女的性格を持っています。そうした巫女かどうかは別にしても、「風土記」に見える女性首長の数と男性首長の数を比べてみると、次のようになります。

○ 男性首長(五七人)・女性首長(六九人)・性別不明の首長(七○人)で、その計は一九六人。また、男女のペアーは一二組あります。
 また、「日本書紀」では次のようになります(ただし、この統計は仲哀天皇までのもので、応神天皇以後は割愛してあります)。

○ 男性首長(二三人)・女性首長(二四人)・性別不明の首長(二○人)で、その計は六九人。また、男女のペアーは六組。

 以上に見るように、「風土記」でも「日本書紀」でも女性首長の数がやや多いのです。
では、なぜ女性首長が多いのでしょうか。その答えをすぐに出すことは出来ませんが、彼女たちが何かの呪力を持った巫女的存在として崇められていた可能性は充分考えられるところです。

 さて、ここで本論に戻りますが、いま問題にしている播磨国印南郡の「吉備比売」はこうした土着の女性首長の一人です。それも「吉備比古」とペアーになっているところから推理すると、ヒミコのような巫女である可能性の大きい首長です。したがって、その娘の「印南の別嬢」もまた、母と同じような巫女的女性の可能性が考えられます。しかも、彼女が死んだ時、死骸はなくなって「ヒレ」を遺すという道教的「尸解」的な物語が伝えられているのです。してみると、彼女が巫女であった可能性は更に大きくなります。そして、それと同時に「ヒレ」の持つ呪的要素も一段と大きく注目されてくるわけです。


④「万葉集」に見えるヒレ
(以下の書き下し文は、小学館発行「古典文学全集」の万葉集」による)

★ ① 巻第二・210 の歌。
 「うつせみと思いし時に(中略)白たへの天(あま)領巾(ひれ)隠り鳥じもの朝立ちいまして入り日なす(以下略) 。」

 訳注では、この歌は柿本人麻呂が妻が死んだ後に悲しんで作った歌、「白たへの天領巾隠り」は「真っ白な天人の領巾(ひれ)に包まれ」、「領巾」は「女性が首から肩にかけた薄くて細長い布きれ」とされています。「天人(天女)」が「ヒレ」を用いている点、「ヒレ」の色が「白」である点など要注意です。すぐ後にある巻第二・213 の歌も同じ内容のもので、この中にも「白たへの天領巾隠り」の表現が見えます。

★ ② 巻第三・285 の歌。
 「たくひれのかけまく欲しき妹の名をこの勢能山にかけばいかにあらむ。」

 訳注によると、この歌は丹比真人笠麻呂が紀伊国に行き、勢能山を越える時に作った歌で、「たくひれの」は「カケ」の枕詞、「タクヒレ」は楮の類で作った領巾(ひれ)、肩にかけるのでカケにかかるとしています。

★ ③ 巻第五・868 の歌。
 「松浦潟(まつらがた)佐用姫(さよひめ)の児が領巾(ひれ)振りし山の名のみや聞きつつ居らむ。」

 訳注は、作者には大伴旅人説と山上憶良説があるとしています。佐用姫が「ヒレ」を振ったことを題材とした歌はいくつか続くので、以下に並べておきます。

★④ 巻第五・871 の歌。
 「遠つ人松浦佐用姫夫恋に領巾(ひれ)振りしより負へる山の名。」

 この歌には次のような序文があり、その中にも「ヒレ」が出てきます。
「大伴佐提比古郎子(おほとものさてひこのいらつこ)、ひとり朝命を被り、使ひを藩国に奉はる。(中略)妾い松浦〔佐用姫〕 、この別れの易きことをなげき、(中略)高き山の嶺に登り、遙かに離りゆく船を望み、(中略)ついに領巾(ひれ)を脱きてふる。(中略)よりてこの山を号けて、領巾ふる嶺といふ。云々 。」
 この序文に出てくる「大伴佐提比古郎子」は、前掲① 「肥前国風土記」に見える「大伴の狭手彦(さでひこ)」と同人で、山名も同じ「摺振(ひれふり)の峯」です。

★ ⑤ 巷第五・872 の歌。
「山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上に領巾(ひれ)を振りけむ。」

★ ⑥ 巻第五・873 の歌
「万代に語り継げとしこの岳に領巾(ひれ)振りけらし松浦佐用姫。」

★ ⑦巻第五・874 の歌。
「海原の沖行く舟を帰れとか領巾(ひれ)振らしけむ松浦佐用姫。」

★ ⑧ 巻第五・883 の歌。
「音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾(ひれ)振りきとふ君松浦山。]
以上、③ ・④ ・⑤ ・⑥ ・⑦ ・⑧ は一連の歌です。

★ ⑨ 巻第七・1243 の歌。
 「見渡せば近き里廻(さとみ)をたもとほり今そ我が来る領巾振りし野に。」
 訳注によれば、この歌は「見渡すと近い里だが、遠回りをして今こそ私は来たぞ、いつか領巾を振った野に」という意味。また、訳注には、「ヒレは、元来、呪術の具であったが、しだいに本来の機能を失い、装飾品となっていった。以前この地を離れる時に、妻が別れを惜しんでヒレを振ったことを回想したか」と追記されています。

★ ⑩ 巻第九・1694の歌
 「たくひれの鷺坂山の白つつじ我ににほはね妹に示さむ。」訳注では、作者は不詳、「たくひれ」は② 285 の歌にもあるが、ここでは「鷺坂山」のサギにかかる枕詞としています。

★ ⑪ 巻第十・2041 の歌。
 「秋風の吹き漂はす白曇は織女(たなばたつめ)の天つ領巾(ひれ)かも。」
 訳注には、作者は不詳、「領巾」は元来神秘的な呪力があると信じられていたが、おしゃれのポイントでもあった、「天つ」とあるのは織女が天上の人であるので言うとあります。「天つ領巾」は、① 210 の歌にも見えます。それは天女のものであり、色は「白」でした。ここに見える「織女の天つ領巾」も「白雲」にたとえられているから、やはり白色と考えられているわけです。

★ ⑫ 巻第十一・2822 の歌。
 「たくひれの白浜並みの寄りもあへず荒ぶる妹に恋ひつつそ居る。」
 訳注によると、作者は不詳。「たくひれ」は⑩ 。

★ ⑬ 巻第十三・3243 の歌。
 「娘子らが麻笥(をけ)に垂れたる(中略)海人娘子らがうながせる領巾(ひれ)も照るがに手に巻ける玉もゆららに白たへの袖振る見えつ相思ふらしも。」
 訳注では、作者は不詳、「うながせる」は首に掛けるの意味。

★ ⑭ 巻第十三・3314 の歌。
 「つぎねふ山背道を(中略)我が持てるまそみ鏡に蜻蛉領巾(あきづひれ)負ひ並め持ちて馬買へ我が背。」
 訳注では、作者は不詳、「蜻蛉領巾」はトンボの羽のように透き通った上等の領巾。

⑤「旧事本紀」に見えるヒレ
★ ① 巻第三「天神本紀」の段
 「天神御祖詔。授天璽瑞宝十種。謂瀛都鏡一。邊都鏡一。八握釼一。生玉一。死反玉一。足玉一。道反玉一。蛇比禮一。蜂比禮一。品物比禮一是也。
天神御祖教詔日。若有痛處者。全致士宝謂一二三四五六七八九十而布瑠部。由良由良止布瑠部。如此為之者。死人反生矣。是則所謂布瑠之言本矣。」

 この記事の内容は、物部氏の祖ニギハヤヒノミコトが天降る時、天神が十種の神宝を授けて、その神宝の用い方を教えたものです。神宝は、鏡が二、銀が一、玉が四、そして比禮(ひれ)が三です。鏡・銀・玉の三者は、天皇の祖ニニギノミコトが天降る時に授けられた三種の神器と同じですが、それに比禮(ひれ)が加えられています。そして、これらの神宝の用い方は、一二三四五六七八九十」と唱えながら「由良由良止(ゆらゆらと)布瑠部(ふるへ)」というものです。ユラユラとフルフのです。そうすると、死人でも生き返るのです。「フルフ」は「振る」と関係があるのでしょうか。そうすると、「ヒレをフル」という意味も分かるような気もしてくるのです。

 ここに出てくる「ヒレ」は、蛇・蜂・品物の三種です。そのうち蛇と蜂の「ヒレ」は前記のように「古事記」にも出ていましたが、「品物比禮」は「旧事本紀」にしかないものです。これは「くさくさのもののひれ」と訓むようですが、それにどんな呪力があるのかは不明です。ともあれ、皇室とは異なる独自の天降り伝承を持つ物部氏の神宝の中に「ヒレ」が出てくるのは極めて興味深いことです。また、前記のアメノヒボコの持参品にも「ヒレ」がありましたが、ニギハヤヒの持参品にも「ヒレ」があることも興味をひかれます。アメノヒボコは海外から渡来したと記されていますが、その「ヒレ」は「浪」とか「風」に関する呪具で海上交通に関わるものでした。ところで、「旧事本紀」には、ニギハヤヒが天降る時、船で来たと記されています。

 船名・船長・舵取り・船子の名も明記されているからそれが分かるのです。してみると、やはり海人に関係してくる感じがします。そして、「ヒレ」が出てくるので、海人と「ヒレ」は結びつきがあるように思えるわけです。


⑥「続日本紀」に見えるヒレ
★ ① 文武天皇の慶雲二年の条
 「これより先、諸国の采女(うぬめ)の肩巾田(ひれのた)、令によりて停めき。ここに至りて旧に復す。」

 岩波の「続日本紀」の注によれば、「采女の肩巾田」は、「采女養田」とか「采女田」とも言われたようです。采女を資養のための田。不輸租田。


⑦「延喜式 」に見える「ヒレ」
★ ① 「延喜式」隼人司条
○ 「凡元日即位蕃客入朝等儀。官人三人。史生二人率大衣一人。番上隼人廿人。今来隼人廿人。白丁隼人一百卅二人。分陣応天門外左右。(中略)群官初入自胡床起。今来隼人発吠声三節。(中略)大衣及番上隼人著当色横刀(中略)。自余隼人皆著(中略)緋帛肩巾(中略)。執楯矛並坐胡床。」

○ 「凡遠従駕行者。官人二人。史生二人。率大衣二人。番上隼人四人。及今来隼人十人
供奉。(中略)今来着緋肩巾。(中略)其駕経国界及山川道路之曲。今来隼人為吠。凡行
幸経宿者。隼人発吠。云々。」

○ 「凡大儀及行幸給装束者(中略)隼人各肩巾緋帛五尺。云々。」

 以上三つの記事の中に、「緋帛肩巾」・「緋肩巾」・「肩巾緋帛」などの語がみえていますが、隼人の研究者として著名な中村明蔵氏は、隻人司に関して要旨次のように述べておられます。

 「大衣(おおきぬ)は、二人。大隅・阿多から各一人。隼人の統率が役目。番上(ばんじょう)隼人は、二十人。畿内および周辺諸国に居住する。女性が含まれていた可能性もある。大儀の時、隼人の楯と槍を携帯する。今来(いまき)隼人は、二十人。本来は、南九州からやって来た隼人で構成。女性が含まれていたことは明らか。大儀の時、『吠声』 を発する。その服装で注目すべきことは、緋帛の肩布(ひれ)を付けていた点で、楯と槍を携帯する。隼人の呪術を行うのは今来隼人であり、その際には『吠声』 と『緋帛の肩布(ひれ)』 が用いられた。『肩布』 は、隻人固有のものとは言えぬかもしれないが、その源流と隼人とは関連があるのかもわからない。隼人の『肩布』 は『緋帛』 とされていたから、深紅の絹布であったこと、『隼人各肩布緋帛五尺』 とするように、その長さが五尺であったことまで知ることができる。その他に、作手隼人が二十人。これは油絹・竹器の製作。歌舞隼人が十三人。これは歌舞奏上が仕事。女性もいたとみられる。白丁隼人が百三十二人。これは一般の隼人。」と。

 さて、以上の「延喜式」隼人司条の記事、および中村明蔵氏の説明から、次のことが分かります。

( 1 )隼人の呪術に「ヒレ」が用いられたこと。それも、重要な呪具であったこと。
( 2 )その「ヒレ」は赤色であったこと。
( 3 )「ヒレ」を用いる呪術に女性が参加していたこと。
( 4 )「ヒレ」の源流は隼人と関連があるかもしれないこと。


⑧「倭名鈔」に見えるヒレ
★ ① 「倭名紗」の「衣服類」の「背子」の所
 「領巾。日本紀私記云比禮。婦人項上餝也。」

 「領巾」と「比禮」の二種の表記があったことが分かります。「項」は漢音「カウ」、呉音「ガウ」で、訓は「ウナジ」。頭の後、クビの意。「餝」は「飾」と同じ。したがって、婦人がウナジの上を飾る物という意味でしょうか。この記事では、単なる飾りとして扱われていますから、当時既に呪的な意味は失われていたのでしょう。


⑨「皇太神宮儀式帳」に見えるヒレ
★ ① 「皇太神宮儀式帳」の「出坐御装束物七十二種」の所
 「御床敷細布帳一條、長一丈、弘四幅。(中略)生絹御比禮八端、須蘇長各五尺、弘二幅。(中略)錦御沓二疋。(中略)錦御枕二基、納白答一合。

 これは、天照大神が用いられる身のまわりの物で、七十二種あるわけです。「生絹御比禮八端、須蘇長各五尺、弘二幅」とありすから、この「比禮(ひれ)」は「生絹」で作られ、「須蘇(すそ)長各五尺、弘二幅」であることなどが分かります。やはり、大神が女性神であるから「ヒレ」が必要なのでしょうか。ただし、それが呪的な意味を持っていたかどうかは、この記事からは不明です。
なお、神宮の別宮などの御装束には「比禮」のことは見えません。


◎まとめ

① 「ヒレ」は呪的なものであったこと。
② 「ヒレ」は隼人に関係があったこと。
③ 「ヒレ」は海人に関係があったこと。
④ 「ヒレ」は女性に関係が深かったこと。

 その他、「ヒレ」は道教に関係があるかもしれないこと。そして、外来的なものかもしれないことなども考えられます。更に、仏教(特に南方の仏教)やヒンズー教などとの関係も考えてみねばならないかもしれません。

古代人と赤色

古代人と赤色

①問題の所在
②「魏志倭人伝」に見える赤色
③「古事記」に見える赤色
④「日本書紀」に見える赤色
⑤「風土記」に見える赤色
⑥「続日本紀」に見える赤色
⑦「続日本後紀」に見える赤色
⑧「萬葉集」に見える赤色
⑨「倭名鈔」に見える赤色

⑪「史記封禅書」に見える赤色
⑫「漢書郊祀志」に見える赤色
⑬「楚辞」に見える赤色
⑭まとめ


古代人と赤色

①問題の所在
 赤色は古代人にとって重要な意味を持っ色であったように思われます。その赤色の中には近頃よく話題にのぼる「朱(しゅ)」や「丹(に)」も含まれています。先ず、「朱」と「丹」はどのように違うのかを調べてみることにします。

★ 「広辞苑」の記事。

○ 「朱」--① 黄ばんだ赤色。② 赤色の顔料。成分は硫化水銀。天然には辰砂(しんさ)として産する。水銀と硫黄と苛性加里・苛性曹達とを熱して製し、また水銀と硫黄とを混じて、これを昇華させて製する。銀末。

○ 「丹」--①赤色の土。あかつち。あかに。和名抄に「丹砂(邇)」とある。② 赤土で染めた赤色。万葉集に「さにぬりのおほはしの上ゆ」とある。
また、右と関連する「辰砂」・「埴(はに)」については、次の如く記されています。

○ 「辰砂」--深紅色の六方晶系の鉱石。水銀と硫黄との化倉卿。塊状として産することが多い。水銀製造・赤色絵具の主要鉱石。しんさ。朱砂。丹砂。丹朱。

○ 「埴」--はに。質の鰍密な黄赤色の粘土。昔はこれで瓦・陶器を作り、また、衣にすりつけて模様をあらわした。ねばつち。あかつち。へな。「万葉集」に「大和の宇陀のまはにのさにつかば」。

★ 考古学者の説明。
○ 「朱」--硫化水銀。
○ 「丹」--べンガラ。

★ 市毛勲氏の著「朱の考古学」(雄山閣)の記事。
○ 「朱」--「赤色」のことで、①水銀朱・② べンガラ(赤鉄鉱)・③ 鉛丹の三者がある。

① 水銀朱--製造水銀朱と辰砂がある。製造水銀朱は「倭人伝」に「真珠」とあるのがそれで、中国から倭王に贈られたものである。(「倭人伝」の記事は後掲)。辰砂は天然水銀朱であり、「倭人伝」に「丹」とあるのがそれで、倭王から中国へ贈られたものである。ただし、倭国における産地は限られたものであったと思われる。

② べンガラ--日本国内のどこにでも産し、古墳石室壁などは全てこれで塗ったものである。土器に塗るには最適で、焼く前に塗った方がよい色になる。

③ 鉛丹--「倭人伝」に「鉛丹」とあるもので、天然には産しない。

 以上を整理すると、次のようになります。

 「朱」は、広辞苑によると、天然に産する辰砂(朱砂)、また、製造水銀朱をもいう。
考古学者によると、硫化水銀。市毛勲氏によると、「赤色」のことで、分類すると、① 水銀朱・② べンガラハ赤鉄鉱)・③ 鉛丹の三者になる。この中、① 水銀朱は、製造水銀朱と辰砂に分かれる。
「丹」は、広辞苑によると、赤色の土、または、赤土で染めた赤色。考古学者によるとべンガラ。市毛勲氏によると、辰砂(天然水銀朱)、「倭人伝」に見える「丹」。

 以上からすると、現時点では、「朱」や「丹」という語の用法が統一されていないように思えます。したがって、「朱」あるいは「丹」が古代人にとってどんな意味を持っていたのかを、「朱」とか「丹」の語を用いて論じるのは困難と考えられます。そこで、ここでは、両者を含めて「赤色」として取り扱うことにします。そして、「赤色に関わっていると考えられる語」を種々の古典から拾い出してみることにします。そうすることは、古代人が「朱」や「丹」に対してどんな呪的な思想を持っていたのかを探る一助になるのではないかと考えるからです。


②「魏志倭人伝」に見える赤色
 以下の書き下し文は、岩波文庫「魏志倭人伝」によるものです。

① 「倭の地は温暖。(中略)。朱丹を以てその身体に塗る、中国の粉を用うるが如きなり。」

② 「真珠・青玉を出だす。その山には丹あり。」

③ 「特に汝に(中略)銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々 五十斤を賜い、云々 。」

④ 「倭王、また使(中略)八人を遣わし、生口(中略)丹(中略)を上献す。」

 これでみると、① の「朱丹」・② の「丹」・④ の「丹」は、倭国に産し、③ の「真珠」「鉛丹」は中国から倭王にくれた物であることが分かります。

 「倭人伝」の著者が倭国に「丹」が産することをわざわざ記事にしたこと、および、倭王が「丹」を中国への貢物にしたことなどから察すると、「丹」は倭王にとっても中国側にとっても相当重要な物であったとすることができます。では、ここにいう「丹」とは何なのでしょうか。「広辞苑」にある「赤土」なのか、考古学者の言われる「べンガラ」なのか、それとも市毛氏の言われる「天然水銀朱」なのかは簡単には決められません。

 また、「真珠」は当時の倭国にはなかった物である可能性が大きいと思えますが、市毛氏の言われるようにそれが「製造水銀朱」かどうかは、まだ研究の余地があるようです。

 また、③ の「真珠」と② の「真珠」は全く同じ語ですが、② の「真珠」は「タマ」を意味するのでしょうか。だが、同一の書物の中で全く同じ文字で表記されているわけですから、これも研究してみる余地はあると思います。「倭人伝」の著者陳寿(ちんじゅ)は、非常に正確にものを書く人物とされているので、この点を軽々 しく見過ごすわけにはゆかないと思います。

 また、倭国に産するのは「朱丹」と「丹」ですが、両者がどう違うのかも問題です。
また、③ の「真珠」だけを問題にして、それと並記されている「鉛丹」を無視する論者が多いのも問題でしょう。


③「古事記」に見える赤色
 以下に見える(原文)・(訳注)は共に小学館発行「古事記」によるものです。

① (原文)「緯旗(かうき)兵(つはもの)を堰(かがや)かして、云々 。」
(訳注)「終旗」は「赤い旗」の意味。

(筆者)「古事記」の序文に見える記事です。壬申の乱に天武天皇が用いた旗が「終旗」。詳細に関しては後掲の「日本書紀に見える赤色」の⑧ 項参照。

② (原文)「尿(くそ)に成れる神の名は、波蓮(はに)夜須毘古神。次に、波蓮(はに)夜須毘売神。」
(訳注)「波運」は「埴(ハニ)」で赤や黄色の、祭具の土器を作る粘土。

(筆者)イザナギ・イザナミの両神による神生みの段にある記事です。

③ (原文)「その美人の大便(くそ)為(ま)る時、丹塗矢(にぬりや)に化(な)りて、その大便為る溝より流れ下りて、その美人のほとを突く。」
(訳注)「丹塗矢」は赤く塗った矢。矢は、一般に神霊の依代(よりしろ)と考えられ、特に赤色の矢は邪霊を政う呪力を持つとされた。雷電の象徴、男性器の象徴と見られる。

(筆者)神武天皇が皇后にヒメタタライスケヨリ媛を選ぶ時の記事です。彼女は大物主神とセヤダタラ媛との間に生まれたが、文中の「美人」がセヤダタラ媛。「丹塗矢」になったのが大物主神。「丹塗矢」は、後掲「風土記」④ の記事にも見えます。

④ (原文)「宇陀つつだ)墨坂神に赤色の楯(たて)矛(ほこ)を祭り、又大坂神に墨色の楯矛を祭り、云々 。」
(訳注)奈良県宇陀郡榛原町に墨坂神社がある。奈良県北葛城郡香芝町穴虫に大坂山口神社がある。墨坂・大坂は共に東西交通の要所。

(筆者)崇神天皇が大物主神を祭る時の関連記事です。なぜ「墨坂神」に「墨色」の楯矛でなく「赤色」の楯矛を祭るのかが問題です。

⑤ (原文)「赤土(はに)を床の前(へ)に散らし、へその紡麻(うみを)を針に貫きて、その衣のすそに刺せ。」
(訳注)「赤土」をまき散らすのは悪霊邪鬼を政うための呪術。すべて赤色のものは邪霊を政う呪力があるとされた。この場合は忍んでくる男の足跡を知るためか。

(筆者)崇神天皇が大物主神を祭る時の関連記事です。大物主神はイクタマヨリ媛と結ばれたが、媛の父母はそれを知らなかったのです。媛が妊娠したので、父母が男は誰かと訊ねたが、媛にも分かりませんでした。そこで、その男の素性を追求するため、「赤土を床の前に散らし、云々 。」と教えました。その結果、男は三輪山の大物主神であることが判明したわけです。ただし、(訳注)に言うにように、「すべて赤色のものは邪霊を蔵う呪力がある」と言い切るのは、疑問です。

⑥ (原文)「新羅国に一つの沼有りて、(中略)この沼の辺に一の賎しき女昼寝したりき。是に日の耀(ひかり)虹の如くその陰(ほと)の上を指しき。(中略)この女人、その昼寝せし時より妊身(はら)みて、赤玉を生みき。(中略)その玉を将(も)ち来て床の辺に置きしかば、即ち美麗(うるは)しき嬢子(をとめ)に化(な)りぬ。」
(訳注)「日本書紀」では、垂仁天皇三年三月条に載っていて、「天日槍(あめのひぼこ)」と表記。

(筆者)新羅王子の天之日矛(あめのひぼこ)に関する記事で、「赤玉」が美人になったのです。この美人が日本に渡り、難波のヒメコソ神社にアカル姫神として祭られました。「赤玉」は、もしかすると「日の耀」と関係があるかもしれません。また、「赤玉」は「アカル姫」とも関係するかもしれません。なお、「日本書紀」では、(訳注)に言うように「天日槍」と表記されていますが、同書には、同じ垂仁天皇二年条に、崇神天皇の時の話として、ツヌガアラシトの渡来に関する記事も載っています。但し、そこでは「赤玉」でなく「白石」が美人になったとあります。「赤」とか「白」とかは聖なる色なのでしょうか。

⑦ (原文)「物部(もののふ)の我が夫子(せこ)の取り佩(は)ける大刀の手上(たがみ)に丹(に)画(か)き著け、其の緒(を)は赤幡(あかはた)を載(かざ)り、赤幡を立てて、見れば、五十隠(いかく)る山の三尾の竹をかき苅(か)り、云々 。」
(訳注)「丹」は赤土。赤色は元来悪霊邪気を祓う呪色であったが、後には権威の標識に用いられた。「赤幡」は大きな赤旗。戦陣に天皇旗として赤旗を立てたことは「古事記」の序文にも見える(① 参照)。「大刀の手上に丹画き著け、其の緒は赤幡を載り、赤幡を立てて」は、「大刀の柄に赤土を塗りつけ、その下緒は赤い布で飾りつけ、戦陣になびかす赤旗を立てて」の意味。

(筆者)清寧天皇の段に見える記事です。後の顕宗天皇・仁賢天皇は兄弟ですが、二人は子供の時、難を避けて播磨国に隠れ、馬飼・牛飼になっていました。ある夜、酒宴の席で舞をまわされた際、歌った歌の一部が右文です。但し、(訳注)のように、「赤色は(中略)後には権威の標識に用いられた。」と言い切るのは、どうでしょうか。


④「日本書紀」に見える赤色
 (原文)・(訳注)は岩波書店発行「日本書紀」によるものです。

① (原文)「兄、著犢鼻(たふさき)して赭(そほに)を以て掌(たなうち)に塗り、面(おもて)に塗りて、その弟に告して日く『吾、身を汚すこと此の如し。永に汝の俳優者(わざをきひと)たらむ』 とまうす。」
(訳注)「赭(そほに)」の「ソホ」は赤土。「ソホニ」も赤土。

(筆者)海幸・山幸の物語に見える記事です。兄の海幸が負けて、自分の手や顔に赤土を塗り、永久に弟の山幸に俳優者として仕えることを誓ったのです。ここでは「手や顔に赤土を塗る」ことが「身を汚す」ことになっていて、「赤色」は神聖な色として扱われていません。海幸は隼人の祖ですから、そうすることは隼人の風習であったのかもしれません。「日本書紀」が編纂された当時、中央の人たちは隼人を軽蔑していたので、「手や顔に赤土を塗る」ことも未開人の風習と考えていたのかもしれません。

 しかし、これが隼人の風習とすれば、これは重要な問題となります。なぜならば、このことは前掲「魏志倭人伝」の記事① に見える「倭の地は温暖(中略)朱丹を以てその身体に塗る」という倭人の風習と関係があるかもしれないからです。即ち、「倭の地は温暖」の「倭の地」そのものが焦人の地と関係のある可能性が出てくるからです。

② (原文)「天香山(あまのかぐやま)の社の中の土(はに)を取りて、天平瓮(あまのひらか)八十枚(やそち)を造り、併せて厳瓮(いつへ)を造りて、天神(あまつやしろ)地祇(くにつやしろ)を敬(るやま)ひ祭れ。」
「天香山の埴(はにつち)を取りて、云々 。」
「天香山に到りて、潜にその巓(いただき)の土(はにつち)を取りて、云々 。」
(訳注)「厳瓮」は、神酒を入れる聖なる瓶。

(筆者)右の三文は、いずれも神武天皇が大和に攻めこもうとする時の記事です。前掲「古事記」の記事② に見えるように、「ハニ」は祭具に用いる赤や黄色の土器を作る粘土。天香山の「ハニ」で作った土器を用いて祭りをおこなえば大和を征服できるという呪術です。また、「その巓(いただき)の土」とあるところから察すると、こうした場合、特に山頂の「ハニ」が有効なのでしょうか。天香山の「ハニ」に関しては、崇神天皇十年条にも「倭国の物実(ものしろ)」とあります(後掲④ )。

③ (原文)「赤盾(あかたて)八枚・赤矛八竿を以て墨坂神を祀れ。亦黒盾八枚・黒矛八竿を以て、大坂神を祀れ。」

(訳注)武器を神社に奉る例は多い。「赤と黒」を使った理由は未詳。

(筆者)崇神天皇が大物主神を祭る時の関連記事。前掲「古事記」④ の記事と同じです。

④ (原文)「吾田(あた)媛、密(ひそか)に来たりて、倭(やまと)の香山の土(はに)を取りて、領巾(ひれ)の頭(はし)に裏(つつ)みて祈(の)みて日さく、『是、倭国の物実(ものしろ)』 とまうして、云々 。」

(訳注)他人の国土から霊質としての土を持って来ることによって、その他人の国土を自由に制御できるという観念。

(筆者)崇神天皇十年九月条の記事です。ヤマトトトビモモソ媛が崇神天皇に、「吾田媛」の反乱を予言する話。「香山の土」は、前掲②にも出てきました。

⑤ (原文)「鵜鹿鹿(うかか)の赤石(あかし)の玉。」

(訳注)「ウ」は接頭語、または「牟(ム)」、即ち、身の意味か。「カカ」は輝くの語根か。したがって、ここは「赤く輝く石の玉」の意か。

(筆者)垂仁天皇三年条に見える天日槍(あめのひほこ)の記事です。彼が持ってきた七物の中の一つがこの「赤石の玉」。

⑥ (原文)「赤き猪(ゐ)忽に出でて、云々 。」

(訳注)古事記の仲哀天皇段では「怒猪(いかりゐ)」と記している。

(筆者)神功皇后が畿内に入る時、カゴサカ王・オシクマ王と戦う時の記事。「赤き猪」が敵のカゴサカ王をくい殺したのです。この場合、「赤き猪」は悪者を殺したという働きをしています。

⑦ (原文)「伯孫(はくそん)(中略)赤駿(あかうま)に騎(の)れる人に逢ふ。その馬(中略)龍(たつ)のごとくにとぶ。(中略)その明旦(くるつあした)に、赤駿、変わりて土馬(はにま)になれり。」

(訳注)土馬は埴輪の馬。埴輪の色からこの駿馬を「赤駿」としたのであろう。

(筆者)雄略天皇九年七月条の記事です。伯孫は河内国の人。馬に乗って応神天皇陵の側を通った時、「赤駿」に乗った人に出会いました。そして、二人は馬を交換したのです。ところが、翌朝、「赤駿」は土馬になっていたというのです。なお、この「赤馬」は「龍のごとくにとぶ」などと、優れた馬として扱われています。

⑧ (原文)「その衆(いくさ)の近江の師(いくさ)と別け難きことを恐りて、赤色を持って衣の上に着く。」
(訳注)「万葉集」一九九、柿本人麿の歌に、壬申の乱のことを叙して「捧げたる幡の靡(なびく)は冬ごもり春さり来れば野のごとに着きてある火の風の共靡くがごとく」とあり、「古事記」の序に天武天皇の功業をのべて「絳旗(かうき)兵(つはもの)を耀(かがや)かして、凶徒瓦のごとく解けき」るように、大海人皇子方の軍は旗にも皆「赤色」を用いたらしい。漢の高祖は、「赤帝」の子であると自負し、旗幟に皆赤を用いたと「漢書高帝紀」にみえるが、井上通泰氏は、天武天皇が自らを漢の高祖に擬したことを示すものとしている。

(筆者)天武天皇元年七月、壬申の乱の時の記事です。「史記封禅書」には、次の記事が見えています。「漢興り、高祖の微なりし時、かつて大蛇を殺す。物有り日く、『蛇は白帝の子なり。しこうして殺しし者は赤帝の子なり。』 と。高祖初めて起こる時、(中略)鼓旗にちぬる。(中略)色は赤きをたっとぶ。」と。これでみると、高祖は自軍の鼓や旗を「犠牲の血で赤く塗った]ようです。漢の高祖が、赤色を重んじたことが分かります。なお、赤色は血に何らかの関係があるのかもしれません。

⑨ (原文)「筑紫大宰(おほみこともち)、赤烏(あかがらす)を献れり。」
(訳注)「赤鳥」は「延喜治部式」に「上瑞」とする。

(筆者)天武天皇六年十一月条の記事。「赤烏」は「倭名鈔」には太陽の中にいるとあります。

⑩ (原文)「朱雀(あかすずみ)、南門(みなみのみかど)に有り。」
(訳注)「失雀」は四方星宿中、南に配されるので南門に「朱雀」のいることを喜んだもの。なお「延喜治部式」には「失雀」を「上瑞」とし、「続日本紀」延暦四年五月条に引く孫氏瑞応図には、「赤雀者瑞鳥也。王者奉己倹約、動作応天時則見」とある。

(筆者)天武天皇九年七月条の記事です。

⑪ (原文)「周芳(すは)国、赤亀を貢れり。」
(訳注)「赤亀」は瑞象とされた。古訓には、この所、カハカメ(スッポンの古名)とある。

(筆者)天武天皇十年九月条の記事です。

⑫ (原文)「相模国司、赤烏の雛二隻(ふたつ)献れり。」
(訳注)特記事項はない。

(筆者)持統天皇六年条の記事です。「赤鳥」は⑨ と同じ。


⑤「風土記」に見える赤色
 (原文)・(訳注)は岩波書店発行「風土記」によるものです。

① (原文)「丹生(にふ)の郷、郡の西にあり。昔時の人、此の山の沙(すなご)を取りて朱沙(に)に該(あ)てき。因りて丹生の郷といふ。」
(訳注)「丹生の郷」は豊後国海部郡丹生郷。坂ノ市町丹生が遺称地。大野川下流の東岸にあたる。中世は臼杵市の地も丹生と称した。「朱沙」は朱色の顔料とする砂土。坂ノ市町久土の赤迫付近に産出したという。

(筆者)「豊後国風土記」の記事です。この記事にあっては、「丹」と「朱」が関係しているようです。

② (原文)「赤湯の泉(中略)。此の泉の穴は郡の西北のかたの竃門山(かまどやま)にあり。其の周りは十五丈ばかりなり。湯の色は赤くして(ひぢ)あり。用いて屋の柱に塗るに足る。(ひぢ)、流れて外に出づれば、変りて清水と為り、東を指して下り流る。因りて赤湯の泉といふ。」

(訳注)「赤湯の泉」は別府市野田の血の池地獄。もと「赤湯」と呼んでいた。「ヒヂ」は、熱湯と共に噴出される粘土質の泥。酸化鉄を含む。

(筆者)「豊後国風土記」の記事です。この場合の「赤湯」は「酸化鉄」に関係するようです。

③ (原文)「時に土蜘妹(つちぐも)、大山田女・狭山田女といふものあり。二(ふたり)の女子の云(い)ひしく、『下田の村の土(つち)を取りて、人形・馬形を作りて、この神を祭祀(まつ)らば、必ず応和(やはら)ぎなむ』 といひき。」

(訳注)「人形・馬形を作りて、この神を祭祀らば」は、人民と馬を神に献ずる意の祭儀であろう。

(筆者)「肥前国風土記」の記事です。佐賀市の西部を流れて有明海に入る嘉瀬川の上流にいた荒ぶる神を和らげる時、土蜘妹の二女性が、その方伝を教えたという話。問題は文中の「土」です。岩波版「風土記」では「つち」と訓んでいますが、「ハニ」が正しいのではないでしょうか。祭具を作る時には「ハニ」を用いることが多いようです。しかも、この場合の「ハニ」は、前掲「日本書紀」② と同じように、この地域の「物実(ものしろ)」の可能性も考えられるので、なおさらです。

④ (原文)「玉依日売(たまよりひめ)、石川の瀬見(せみ)の小川に川遊びせし時、丹塗矢(にぬりや)、川上より流れ下りき。乃ち取りて、床の邊に挿し置き、遂に孕みて男子を生みき。(中略)外祖父(おほぢ)のみ名に因りて、可茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)と號(なづ)く。謂はゆる丹塗矢は、乙訓(おとくに)の郡の社に坐せる火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。」

(訳注)「丹塗矢」は赤く塗った矢。男神の霊代(たましろ)、物ざねである。

(筆者)「山城国風土記」逸文「賀茂社」の記事です。前掲「古事記」③ にあるように、大物主神も「丹塗矢」になりました。

⑤ (原文)「葬具(はふりつもの)の儀(よそひ)の赤?(あかはた)と青幡と、(中略)雲と飛び虹と張り、野を瑩(て)らし路を輝かしき。時の人、赤幡の垂(しだり)の国と謂ひき。」
(訳注)特記事項はない。

(筆者)「常陸国風土記」逸文「信太郎」の記事です。葬儀にも「赤」が用いられていたことが分かります。考古学上、弥生時代・古墳時代の墓にも「赤」が関係しているようです。

⑥ (原文)「息長帯日女命(おきながたらしひめのみこと)、新羅の国を平けむと欲して下りましし時(中略)爾保都比売命(にほつひめのみこと)、(中略)『(中略)白衾(たくぶすま)新羅の国を丹波(になみ)以ちて平伏(ことむ)け賜ひなむ』 と、此く教へ賜ひて、ここに赤土(あかに)を出し賜ひき。其の土(に)を天の逆鉾に塗りて神舟の艫舳(ともへ)に建て、又、御舟の裳(すそ)と御軍の着衣を染め、又、海水を撹き濁して、渡り賜ふ時、云々 。」

(訳注)「播磨国風土記」逸文「爾保都比売命」の記事。「息長帯日女命」は神功皇后。「爾保都比売命」は地名の「ニフ(丹生)」による神名で、土地の首長としての女神か。赤土の出る地を「ニフ(丹生)」という。「丹波」は「赤色の浪」。「赤土」は、赤色の顔料とする土。赤色には降魔・除厄の霊力があるとされている。「御舟の裳」は、船体外側の水に浸る部分のことか。「撹き濁して」は、かきまわして(赤く)濁らし。こうして赤く染まったのが「丹波」である。

(筆者)(訳注)のように、「赤色には降魔・除厄の霊力がある」とするのも一理あるかもしれませんが、ここで「赤色」が重要な理由は、攻めようとする相手が「新羅(白国)」ということにあるのではないでしょうか。「赤」は「白」に勝つという思想です。天武天皇も「赤色の旗」を立てて、壬申の乱に勝ちました。それはまた、漢の高祖が自分を「赤帝」の子と考えたことに関連した思想に基づくものであることも既に述べました。もしも、攻める相手が百済ならば、神は「赤土」を出さなかったと思われます。


⑥「続日本紀」に見える赤色
 以下の(原文)・(訳注)は岩波書店「新日本古典文学大系」「続日本紀」によるものです。

① (原文)「下野・備前の二国、赤烏を献る。」

(訳注)「赤烏」は祥瑞。治部省式では上瑞。

(筆者)文武天皇二年七月条に見える記事です。「赤烏」は前出。

② (原文)「伊勢国は朱沙(すさ)・雄黄、常陸国・備前・伊予・日向の四国は朱沙、(中略)豊後国は真朱(しんしゅ)。」

(訳注)「朱沙」は赤色の顔料。朱砂とも。水銀と硫黄の化合した赤色の土。「和名抄」に「本草云。朱砂最上者、謂之光明砂。」。「真朱」は黄色の顔料。砒素の硫化物。薬として用い、典薬寮式の諸国進年料雑薬では、伊勢国は硫黄四斤を貢上と定める。

(筆者)① と同じく、文武天皇二年七月条に見える記事です。ここには、「朱沙」「真朱」などの語が見えています。特に「真朱」は、その産地が豊後国であることとあいまって、今後の研究に値するもののようです。

③ (原文)「越前国、赤鳥を献る。」

(筆者)文武天皇の慶雲二年九月条に見える記事です。「赤烏」は前出。

④ (原文)「大倭(やまと)・參河をして並びて雲母(きらら)を献らしむ。伊勢は水銀(みずかね)。(以下略)」

(訳注)「雲母」や「水銀」などの鉱産物には、本草集注に仙薬と記されたものが多い。

(筆者)元明天皇の和銅六年五月条の記事です。伊勢の「水銀」は有名です。

⑤ (原文)「高田首(おびと)久比麻呂、霊亀(れいくゐ)を献る。長さ七寸、闊(ひろ)さ六寸。左の眼白く、右の眼赤し。頸(くび)に三公を著(あらは)し、背に七星を負ふ。前の脚に並に離(り)の卦(け)あり、後の脚に並に一爻(かう)あり。腹の下に赤白の両点ありて、(以下略)。」

(訳注)「三公」は北極星を守る三つの星。

(筆者)元明天皇の霊亀元年八月条の記事です。眼に関して「赤」と「白」が対照的に用いられています。また、「七星」は道教に関わるかもしれません。「離卦(火)」「一>爻」は共に易に関係するもの。

⑥ (原文)「武蔵・上野の二国並びて赤烏を献ず。」

(筆者)元正天皇の養老五年条の記事。「赤烏」は前出。

⑦ (原文)「紀の朝臣、白亀を献ず。(中略)両眼並びて赤し。」

(筆者)元正天皇の養老七年条の記事。この亀は身体が「白」で眼が「赤い」。

⑧ (原文)「尾張王(中略)白亀一頭を得たり。(中略)両目並びて赤し。」

(筆者)聖武天皇の天平十七年条の記事。⑦ と同じ。

⑨ (原文)「難波長柄の朝廷(中略)小鎌を伊予国に遣わして、朱砂を採らしむ。」

(筆者)称徳天皇の天平神護二年条の記事。「難波長柄の朝廷」は、孝徳天皇。「朱砂」と前出② の「朱沙」と同じかどうかが問題です。

⑩ (原文)「日向国宮崎郡の人大伴人益が献ずる所の白亀、赤き眼ある。云々。」

(筆者)称徳天皇の神護景雲二年条の記事。何度も出てきた亀。

⑪ (原文)「大宰府より白鼠の赤眼あるを献ず。」

(筆者)光仁天皇の宝亀十一年条の記事。「赤眼」の白鼠は初めて。

⑫ (原文)「僧勤韓、赤烏を獲たり。」

(筆者)桓武天皇の延暦三年条の記事。何度も出た。

⑬ (原文)「皇后宮に赤雀の瑞あるによって、云々 。」

(筆者)桓武天皇の延暦四年条の記事。前出。

⑭ (原文)「摂津職、白鼠の赤眼あるを貢す。」

(筆者)桓武天皇の延暦九年条の記事。⑪と同じ。


⑦「続日本後紀」に見える赤色
 以下は吉川弘文館「国史大系」の「続日本後紀」による。

① (原文)「是の夜、赤気あり。方四十丈、坤方より来たり、紫宸殿の上に至る。」

(筆者)仁明天皇の承和六年条の記事。同十年条にも「赤気」の記事が見えます。赤い気体のようです。

② (原文)「予、昔また此の病を得、(中略)金液丹(中略)を服せんと欲す。」

(筆者)仁明天皇の嘉祥三年条の記事。「金液丹」は「丹薬」で、水銀に関係あるかもしれません。道教の医療とも関係するようです。


⑧「萬葉集」に見える赤色
 以下は小学館発行「日本古典文学全集」の「万葉集」による。

① (原文)「味酒三輪の山あをによし奈良の山の山のまに、云々 」

(訳注)一七の歌。額田王の作。「あをによし」は奈良の枕詞。「アヲニ」は「青い土」。奈良山の辺で古く「アヲニ」を産したところからいうか。「ヨシ」を付してその地の特産物をほめて枕詞とした例にタマモヨシ・アサモヨシなどがある。

(筆者)「ニ」は「丹」ですから、「アヲニ」が単なる「青い土」とも思えません。何か特別な意味を持った土であったのではないでしょうか。

② (原文)「草枕旅行く君と知らませば岸の埴生にほはさましを」

(訳注)六九の歌。長皇子にたてまつりし歌。「埴生」は「ハニフ」。「ハニ」は赤土・黄土の類。染料に用いることがある。「フ」は、それのある所。「にほはさましを」の「ニホフ」は「赤い色が発散する」意。

③ (原文)「旅にしてもの恋しきに山下の赤そほ舟沖に漕ぐ見ゆ」

(訳注)二七○の歌。「赤そほ舟」は「赤土を塗った舟」。赤色は官舟の目印とも言い、魔よけともいう。「ソホ」は赤土。

(筆者)「官舟の目印」が赤色とすれば、その理由がまた問題です。「そほ舟」の語は二○八九の歌にも見えます。ここでも意味は「朱塗りの舟」ですが、それは七タの時に彦星が乗る舟とされています。では、彦星はなぜ赤い舟に乗るのでしょうか。

④ (原文)「なゆ竹のとをよる御子さにつらふ我が大君はこもりくの泊瀬の山に、(以下略)」

(訳注)四二○の歌。作者は丹生王。「さにつらふ」は、「赤みを帯びた」の意か。
「サ」は接頭語。「ニ」は赤土、又は、それからとった赤い絵具であろうが、「ツラフ」の語性は不明。「丹ツラフ」という形もある。多く?を用いるところをみると、元来?の赤いことを言うか。

(筆者)作者が「丹生王」である点も何か関係があるのでしょうか。「さにつらふ」は、一一九一の歌・一九八六の歌・三八一一の歌など、「万葉集」の各所に用いられています。

⑤ (原文)「白波の千重に来寄する住吉の岸の黄土ににほひて行かな」

(訳注)九三二の歌。「黄土」は「ハニフ」で、染料に用いる赤または黄の粘土「ハニ」のある所。「フニ」の原文「粉」は、漢字音「フニ」を借りると共に土の細かさを示した表記である。「にほひて行かな」の「ニホフ」は、赤土を意味する名詞から出た動詞で、本釆は赤い色がこぼれるように現れることをいうが、時には他の色にも転用し、また嗅覚にも用いた例がある。ここでの「ニホフ」は物に触れることによって衣が自然に染まることをいう。

(筆者)「住吉の岸の黄土」の語は、一○○二の歌にもあります。住吉は住吉神を祀る地であるだけに、「住吉の岸の黄土」は何か神祭りに関わるものかもしれません。

⑥ (原文)「大和の宇陀の真赤土のさ丹つかばそこもか人の我を言なさむ」
(訳注)一三七六の歌。「さ丹つかば」は「赤土がついたならば」の意。

(筆者)この歌の題は「赤土に寄す」というもので、珍しい題です。「宇陀」の地は赤土で知られていたと思われます。しかも、わざわざ「真赤土(まはに)」と「真」を付していることも注意をひきます。

⑦ (原文)「彦星は織女と天地の別れし時ゆ(中略)さ塗りの小舟もがも玉巻きのま櫂もがも朝なぎにいかき渡り夕潮にい漕ぎ渡り、云々 」
(訳注)一五二○の歌。山上憶良の七タの歌十二首の一つ。「さ塗りの小舟」は「赤い塗料を塗った小舟」。「サ」は接頭語。「玉巻キ」と共に空想的装飾を示す。

(筆者)前掲③の歌に出てくる「赤そほ舟」と同じかどうかが問題です。また、彦星の舟が赤い理由をただ「空想的」で片づけてよいものでしょうか。

⑧ (原文)「我が恋ふる丹のほの面わ今夜もか天の川原に石枕まく」
(訳注)二○○三の歌。「丹のほ」は目立って赤い色の比喩。「ホ」は「秀」。人の目につくものにいう。

⑨ (原文)「彼方の赤土の小屋に小雨降り床さへ濡れぬ身に添へ我妹」

(訳注)二六八三の歌。「赤土の小屋」は「ハニフで造った小屋」。「ハニフ」は粘土性の赤土のある所。ここは赤土そのもの。

⑩ (原文)「見渡しに妹らは立たしこの方に我は立ちて(中略)さ丹塗りの小舟もがも(以下略)」

(訳注)三二九九の歌。「さ丹塗りの小舟」は「赤い塗料を塗った小舟」。

⑪ (原文)「おしてる難波の崎に引き登る赤のそほ舟に綱取り掛け、云々 」

(訳注)三三○○の歌。「赤のそほ舟」は赤土を船腹に塗った舟。「ソホ」は赤土。

⑫ (原文)「ま金吹く丹生のま朱(そほ)の色に出て言はなくのみそ我が恋ふらくは」

(訳注)三五六○の歌。「ま金吹く」の「マカネ」は金の異名。「マ」は純正の意であろう。また、「フク」は、辰砂から採った水銀で雑鉱から純金を吹き分け、精練すること。催馬楽にも「まかね吹く吉備の中山」とある。「丹生のま朱」の「マソホ」は、辰砂(硫化水銀)の古名。その色が赤いので、「色に出ヅ」を起こす序とした。「丹生」は、元来、水銀の原料である辰砂を産出する所を意味する普通名詞。全国各地に同じ地名が散在し、「万葉集」に現れる「丹生」の比定はしばしば困難である。この歌に見えるそれは「和名抄」の「上野国甘楽郡丹生郷」の丹生であろう。現在の富岡市西北方の丹生川に沿う上丹生・下丹生の地がそれで、丹生神社もあり、現在でも水銀質の残存が認められ、古代に辰砂が露頭していたことは明らかだという(松田寿男氏著「丹生の研究」による)。

⑬ (原文)「仏造るま朱(そほ)足らずば水溜まる池田の朝臣が鼻の上を掘れ」

(訳注)三八四一の歌。「ま朱」は辰砂。硫化水銀の古名。色赤く、その出土地は丹生と呼ばれた。これから採った水銀は五対一の割合で金と混ぜ、アマルガムとして鍍金した。「延暦僧録」の記載によると、東大寺の大仏の鍍金には約二九三キログラムの膨大な量の水銀を要したことが知られる。なお、池田の朝臣の鼻は赤鼻であったので、辰砂が出るかもしれないとからかったもの。

⑭ (原文)「いづくにそま朱掘る岡薦畳平群の朝臣が鼻の上掘れ」
(訳注)三八四三の歌。⑬ と似る。

⑮ (原文)「沖行くや赤ら小舟につと遣らばけだし人見て開き見むしも」
(訳注)三八六八の歌。「赤ら小舟」は船体を赤く塗った舟。官船の目印とも、魔除けともいう。

(筆者)③ ・⑦ ・⑩ ・⑪ の歌にも赤い船がある。次項の歌も同じ。

⑯ (原文)「沖つ国領く君が塗り屋形丹塗りの屋形神が門渡る」

(訳注)三八八八の歌。「沖つ国」は海の彼方にあると信ぜられた常世(とこよ)の国で、死者の霊魂の住む冥界でもあった。「領く」は「ウシハク」で、神が空間を領有すること。この君は死者の世界を統括する冥界の王をいうか。「塗り屋形」は塗料を塗った屋形舟。魔除けのまじないか。「神が門渡る」は、海神のいます瀬戸を渡るの意。

(筆者)またも赤い舟です。「赤い舟」は何か神秘的な意味を持ったものかもしれません。


⑨「倭名鈔」に見える赤色
 風間書房発行「倭名鈔」による。

① (原文)「陽烏。(中略)日中有三足烏。赤色。(中略)日本紀謂之頭八咫烏。(以下略)」

(筆者)巻一に見える記事。太陽の中に「赤い烏」がいて、足が三本あるというのです。

② (原文)「埴。釋名云。土黄而細密。(中略)和名波爾。」

(筆者)巻一にある記事。「波爾」は「ハニ」。

③ (原文)「心。白虎通云。心、火之精也。色赤。」

(筆者)巻三にある記事。「心」は心臓で、火の精だから「赤色」というわけです。
「倭名鈔」は、肝臓は木の精で「青色」、牌臓は土の精で「黄色」、肺臓は金の精で「白色」、腎臓は水の精で「黒色」だとしています。五行思想に関係あるかもしれません。

③ (原文)「玉門。房内経云。玉門、女陰名也。(中略)或云朱門。云々 。」

(筆者)巻三にある記事。「赤門」でなくて、なぜ「朱門」なのでしょうか。玉門は古代人にとっても極めつきの重要性を持っていた所と考えられますから、あるいは「朱」に何か意味があるのかもしれません。

④ (原文)「水銀。(中略)和名美豆加爾。」
「汞粉。(中略)和名美豆加禰乃加須。焼時飛著釜上之名也。俗名之水銀灰。」
「鎮粉。和名美豆加禰乃介布利。焼朱砂為水銀其上黒烟名也。」

(筆者)何れも巻十一にある記事。「美豆加爾」・「焼時飛著釜上」・「焼朱砂為水銀」などの説明部分は要注意。

⑤ (原文)「丹薬」・「金液丹」・「水銀膏」・「鉛丹散」

(筆者)いずれも巻十二にある記事。「金液丹」は前掲「続日本後紀」② の記事に見える。

⑥ (原文)「丹砂。(中略)和名迩。似朱砂而不鮮明者也。」
「朱砂。本草云。朱砂最上者謂之光明砂。」

(筆者)何れも巻十三にある記事。「似朱砂」・「光明砂」は要注意。


⑪「史記封禅書」に見える赤色
① (原文)「周は火徳を得、赤烏の符ありき。」

(筆者)「赤烏」は「日本書紀」などにも見えます。ここでは、周の武王が段の紂王を伐とうとして孟津を渡る時、天から火が下って王の屋に止まり、流れて「赤烏」になったと言っているのです。また、「漢書」にも同様の記事があります。また、「呂氏春秋」にも「赤烏は丹書を銜(ふく)みて、周社に集(とどま)れり。」とあります。この「丹書」も要注意。

② (原文)「高祖初めて起こる時、(中略)鼓旗にちぬる。(中略)色は赤きをたっとぶ。」

(筆者)「漢書」にも全く同様の記事があります。「高祖」は漢の初代。高祖は蛇を殺したが、蛇は「白帝」の子で、殺した高祖は「赤帝」の子です。ということは、「赤」は「白」に勝つということなのでしょうか。「ちぬる」は「血を塗る」。鼓や旗などを血で塗ったのは「赤」と関係があるのでしょうか。また、本来、「赤」の呪術には血が関係あるのでしょうか。なお、赤旗は前掲「日本書紀」⑧ の記事に関連。

③ (原文)「竃を祀れば、則ち物を致す。物を致せば、丹砂化して黄金となすべし。黄金成りて以て飲食の器となせば、則ち寿を益す。云々 。」

(筆者)「漢書」にも同様の記事があります。この文は李少君という方士が前漢の武帝に言った言葉。「物」とは「妖怪」。「丹砂が黄金になる」という点は要注意。


⑫「漢書郊祀志」に見える赤色
 前項の「史記封禅書」① ・② ・③以外に、次の記事が見えます。

① (原文)「神の通い路朱丹(あか)くぬり、云々。」

(筆者)これは郊祀歌十九章の「天門」と題する歌の一節。仙人となって天に昇るのを願う意味の歌です。「神の通い路」が「朱丹」に塗られているのです。なぜ、「朱丹」で塗るのでしょうか。


⑬「楚辞」に見える赤色
 以下の(原文)・(訳注)は明治書院発行「楚辞」によるものです。

① (原文)「ゲイなんぞ日を弾(い)たる。烏なんぞ羽を解きたる。」

(訳注)「天問」篇第三段の記事。「ゲイ」は人名、弓の名人。文意は、「弓の名手ゲイは、なぜ太陽を射たのだろうか。その時、烏はなぜに羽を落としたのだろうか。」これは「准南子」や「山海経」にある伝承によったもの。即ち、「昔、尭の時、十個の太陽が並び出て草木が枯れた。そこで尭がゲイに命じて太陽を射て、その九にあてた。そのため九羽の烏が死んで、羽を落とした。」というものである。

(筆者)太陽の中に三本足の烏がいて、その色は赤いといわれますが、ここに出てくる烏がそれです。なお、この記事に関連して、解釈者星川清孝氏は、「『山海経』 に『不死の民は云々 』 とある部分に関して郭沫若氏が『赤泉あり。これを飲めば老せず。』 と注を付している。」と記しておられます。これからすると、「赤泉」の水は不老不死に関係するもののようです。更に、星川氏は、「准南子」の中に「昆青(こんろん)に(中略)丹水あり。これを飲めば死せず。」と記されていることも述べておられます。そうだとすれば、「丹水」もまた不老不死に関係するもののように思えます。「赤泉」・「丹水」が不老不死の水という思想が古代中国にあったことは、赤色との関係を考慮すると、見過ごすことができない点です。

② (原文)「網戸は朱綴(しゅてい)し、方連を刻す。(中略)堂を経て奥に入れば、朱塵と莚あり。(中略)紅壁沙版。云々 。」

(訳注)「招魂」篇第四段に見える記事。文意は、「窓の戸には網の目に朱の糸を綴り、門の上の横木には連続方形が刻んである。(中略)広間を通って奥の間にはいると、朱色の塵除け天井とすのこがある。(中略)紅の壁や丹沙の腰板もある。」

(筆者)「招魂」とは死んだ人の「魂を招いて」呼び戻そうとすることです。その第一段に、「魂魄(こんばく)離散す。汝筮して之をあたへよ。」と見えていますが、これは、「彼の魂と魄とが分散して死のうとしている。お前がその所在を筮竹で占って、彼に魂を与えよ。」という意味です。これからすると、当時は「魂」と「魄」とは別個のもので、人が死ぬのは「魂」がどこか遠くへ行ってしまうからで、「魂」を呼び戻せば人は生き返ると考えられていたことになります。

 「招魂」の詩全体の意味は、おおづかみに言えば、「魂よ。天地四方には悪者が多いから、恐ろしい目に会わないうちに早く帰ってきなさい。魂よ。あなたが帰ってきてから住むために、理想的な部屋を造りましたよ。待っていますよ。」ということです。そして、その部屋には特別な仕掛けがしてあるのです。その仕掛けについて述べたのが、ここに掲げた文です。

 即ち、悪魔が追い掛けて来ても部屋に入ることができないように、「窓の戸には網の目に朱の糸が綴ってあり、門の横木には連続方形の飾りが刻んである。」というわけです。解釈者の星川清孝氏は、そのことに触れておられませんが、「朱の糸の網」も「連続方形の飾り」も、共に悪魔よけの力を持つものと思われます。更に、部屋の「天井も朱色」であるし、その部屋は「紅の壁や丹沙の腰板」で造られています。「連続方形」などの連続文様が悪魔よけの呪力を持つことは、よく言われることで、「朱綴」された網戸も同じ呪力を持ったものと解するのが妥当と思えます。加えるに、部屋の天井・壁・腰板までもが「赤色」なのです。

(追記)以上に見た古典以外に調べたのは、「日本後紀」・「懐風藻」・「先代旧事本紀」・「皇太神宮儀式帳」・「後漢書倭伝」・「宋書倭国伝」・「隋書倭国伝」・「旧唐書倭国日本伝」などですが、これらの中には赤色に関する目立った記事はありませんでした。
 なお、時代は下がりますが、「宋史日本伝」には次の記事が見えています。
「明州また言う。『その国の太宰府の牒を得たり。(中略)仲回等を遺わし、(中略)水銀五千両を貢す。云々。』 」と。

 岩波文庫版「宋史日本伝」の注によれば、これは日本では白河天皇の承暦二年(一○七八)の記事。当時の中国は北宋。ここでの要点は、日本から中国へ「水銀五千両」を貢したことです。


⑭まとめ
 以上、種々 な古典に出てくる「赤色」を調べてみましたが、中にはあまり意味のないように思える資料もありました。そこで、右記とかなり重復することにもなりますが、これらからの中から「赤色」に対する古代人の思想をうかがい得ると思われる特に目立った記事だけを選んで整理してみると、およそ次の如くになるでしょう。

★ ① 「朱丹を身体に塗る。中国の粉を用うる如きなり。」(魏志倭人伝)

 この朱丹が単に体を飾る目的なのか、何か呪的な意味を持っのか、これだけでは不明としか言いようがありません。ただし、倭人伝の著者は前者の意味に解したようです。下記の⑤ 関連。

★ ② 「絳旗兵を耀して、凶徒瓦のごとく解けき。」(古事記)

 御軍のしるしの赤い旗が兵器を輝かすと、敵軍は瓦が一時に崩れるように破れ散ったという意味とされています。壬申の乱の時、大海人皇子が赤旗を用いたのです。なぜ赤色の旗なのでしょうか。ところが、「日本書記」には、「その衆の近江の師と別け難きことを恐りて、赤色をもって衣の上に着く。」と見えています。これは旗が赤いというのではありませんが、これから類推すると、赤色の旗は便宜的目的のものとなります。だが、一方、漢の高祖が赤帝の子であると自負して赤旗を用いたこと(漢書)に関係があるという学説があります。即ち、大海人皇子は自らを高祖に擬したというのです。

 また、「史記封禅書」には、「周は火徳を得、赤烏の符ありき。」ありました。周王朝と漢王朝の間にある秦王朝は水徳を尊び、色は黒(または白)を重んじたので、漢の高祖は周王朝の火徳、つまり、赤色を尊ぶことにより、自らを周王朝の相続者に擬した可能性があります。このように考えてくると、大海人皇子が赤旗を用いたのも単なる便宜上のためだけではないことになってきます。
 更に、赤旗に関しては、「史記封禅書」に、「高祖初めて起こる時、(中略)鼓旗にちぬる。(中略)色は赤きを尊ぶ。」とありました。この赤色は『ちぬる』 ですから「血」です。してみると、赤色の呪術には、本来、血が関係している可能性があります。

 なお、「史記封禅書」の記事に関しては後に掲載する⑥ の記事も参照して下さい。
また、前掲「史記封禅書」の記事に見える「赤烏」は、「日本書記」・「続日本紀」「倭名鈔」などにたびたび出てきますが、中でも、「倭名鈔」に見える「陽烏。(中略)日中有三足烏。赤色。(中略)日本紀謂之頭八咫烏。」の記事は注意をひきます。太陽の中に赤烏がいるが、これがヤタガラスだというのです。更に、延喜治部式によれば、「赤烏」は上瑞とされています。古代の日本人が、「史記封禅書」などに見える赤鳥の故事を知っていたからでしょうか。

(備考)馬王堆漢墓の帛画の太陽の中にも烏が描かれていますが、これは黒色で、足は二本です。

★ ③ 「その美人の大便為る時、丹塗矢に化りて、その大便為る溝より流れ下りて、その美人のほとを突く。」(古事記)

 矢は神霊の依代とされ、特に赤色の矢は邪霊を祓う呪力を持つとする学説があります。
同じような丹塗矢は(山城国風土記逸文)にも見えます。

★ ④ 「赤土を床の前に散らし、へその紡麻を針に貫きて、その衣のすそに刺せ。」(古事記)

 これは大物主神がイクタマヨリ媛の所に忍んできた時、その素性を追求するための方法を述べた記事です。なぜ赤土が必要なのでしょうか。赤土をまき散らすのは悪霊邪鬼を祓うための呪術で、すべて赤色のものは邪霊を祓う呪力があるとする学説があります。しかし、忍んでくる男の足跡を知るための方法とする学説もあります。後者ならば便宜的な赤色となります。

★ ⑤ 「兄、著犢鼻(たふさき)して、赭(そほに)を以て掌に塗り、面に塗りて、その弟に告して日く、吾、身を汚すことかくの如し。永に汝の俳優者たらむとまうす。」(日本書記)

 これは海幸・山幸の物語の一節です。海幸(隼人の祖)が、ソホニ(赤土)を手や顔に塗るのです。そして、そのことが身を汚すことになるというのです。ここでは赤色は汚れた色とされています。してみると、赤色は必ずしも神聖な色ではないことになります。

 では、どう解釈したらよいのでしょうか。結論から言えば、赤土を体に塗るのは、身を飾る目的、あるいは呪術的な目的を持った隼人の習慣だったのではないでしょうか。換言すれば、隼人は身を汚すために赤土を塗ったのではないのに、当時の中央の人たちは隼人を軽蔑していたので、彼らの習慣をも軽蔑的に捉えたものと考えられます。それのみか、海幸・山幸の物語そのものが、隼人は天皇に服属すべきものとする目的で作為されたものと考えられます。したがって、ここに赤色を汚れたものとする記事があるからといって、古代人が赤色を神聖なものとしていたことが全面的に否定されることにはならないと言えましょう。

 なお、この記事が前記の① 「朱丹を身体に塗る。」(魏志倭人伝)と関係があるとすれば、倭人伝が「倭の地は温暖」とする「倭の地」は、隼人の地を指す可能性も出てきますが、これは別の意味で大問題となります。
 また、隼人が朝廷の儀式など際して身に帯びた「ヒレ」も赤色です。赤色と隼人の関係は深い色なのではないでしょうか。

★ ⑥ 「息長帯日女命、新羅の国を平けむと欲して下りましし時(中略)爾保都(にほつ)比売命、(中略)赤土を出したまひき。その土を天の逆鉾に塗りて、神船の艪舳に建て、また、御船の裳(すそ)と御軍の着衣を染め、云々。」(播磨国風土記逸文)

 これは神功皇后の新羅征討の一節ですが、なぜ、鉾・船・軍の着衣などを赤色にしたのでしょうか。しかも、このことが新羅征討に大きな効果があったというのです。このことに関しては、赤色には降魔・除厄の霊力があるからとする学説が有力です。

 だが、「史記封禅書」には、「漢興り、高祖の微なりし時、かつて大蛇を殺す。物有り日く、蛇は白帝の子なり。而して殺しし者は赤帝の子なりと。(中略)高祖初めて起こる時(中略)鼓旗にちぬる。(中略)漢王となる。(中略)色は赤きをたっとぶ。云々。」と見えていました。

 即ち、赤は白に勝つのです。これからすると、シラギが「白」だから赤土を用いたというのが正解ではないでしょうか。シラギでは秦王朝の白を重んじました。もしも、征討する相手が百済なら赤土は用いられなかったと思われます。百済は漢王朝の赤色を重んじていたからです。したがって、赤色には降魔・除厄・神聖・霊的などの呪力があるとする通り一遍の解釈が常に正解であるとは限らないと言えます。

★ ⑦ 「旅にしてもの恋しきに山下の赤そほ舟沖に漕ぐ見ゆ。」(万葉集)

 赤そほ舟は赤土を塗った舟。赤色は官舟の目印という学説もあります。また、魔よけという学説もあります。「万葉集」には、七夕の彦星が「さ塗りの小舟」に乗るという歌もあります。これも赤い塗料を塗った小舟の意です。彦星が赤い舟に乗るのは空想的だとする学説がありますが、果たして空想的の一言で片づけてよいかどうか疑問です。

 同歌集には、「沖つ国領(おしは)く君が塗り屋形舟丹塗りの屋形神が門渡る。」とも見えています。沖つ国は海の彼方の常世の国で死者の霊が住むところです。この歌は、丹塗りの屋形舟が海神のいます瀬戸を渡る意とされます。してみると、赤い舟は空想的というよりか、神秘的・呪術的な感じにとった方が正解ではないでしょうか。これを補強するのは、「漢書郊祀志」に見える「神の通い路朱丹(あか)く塗り、云々。」の記事です。これは、仙人となって昇天するのを願う意の歌の一節で、郊祀歌十九章「天門」の記事です。神の通い路が朱丹(あか)く塗られているというのです。彦星の舟は赤塗りだし、常世の国にも赤塗りの屋形舟がありました。してみると、赤は神・霊・天などと関わる色となってきます。

★ ⑧ 「心。白虎通云。心、火之精也。色赤。云々。」(倭名鈔)

 心は心臓の意です。それは火の精だから赤色なのでしょう。ここでは省略しましたが、「倭名鈔」では、肝臓は木の精で青、脾臓は土の精で黄、肺臓は金の精で白、腎臓は水の精で黒とされています。以上のような色の分け方には五行思想が関連しているようにも思えますが、少なくとも古代人が、火・心臓・血などが赤に関係したものと考えていたことは確かのようです。

★ ⑨「網戸は朱綴(しゅてい)し、方連を刻す。(中略)堂を経て奥に入れば、朱塵と莚あり。(中略)紅壁沙版。云々。」(楚辞)

 「楚辞」の「招魂」に見える記事です。窓の戸に綴った網目の糸は朱、奥の間の天井は朱色、その壁は紅色で、腰板は丹沙です。ここには赤色に関するものが四つ出てきます。

 このように赤色を用いたのは、遊離していた「魂」が招かれて帰って来た時に住むための家や部屋だからと考えられます。換言すれば、追いかけてきた悪魔から「魂」を守るためには赤色が必要なわけです。「楚辞」は古代の長江流域の思想を反映している書物と考えてよいと思います。してみると、この地域にあっては、赤色は除魔の呪力を持つと信じられていたと推理されます。加えるに、門に刻されている「方連」もまた、除魔を目的としたものと考えられます。連続方形の文様、広く言えば連続文様を魔よけとする学説は有力だからです。



 以上から、総まとめとして、およそ次のことが言えるのではないでしょうか。
○ 赤色は、神・天などに関連する。
○ 赤色は、除魔などに関連する。
○ 赤色は、心臓・血などに関連する。
○ 赤色は、五行思想に関連する。
○ 赤色は、隼人に関連する。
○ 赤色は、白色とあいまって、漢王朝に関連する。
○ 赤色は、古代中国においても呪的な意味を持つ色であった。

(付記)吉野ケ里から赤色的なものが出土して、それが水銀朱であることが分かったとします。すると、これは倭人伝に見える「真珠」(魏から倭への下賜品)だという人がいます。つまり、倭人伝に見える「真珠」は製造水銀朱だというわけです。だが、何故このようにすぐに倭人伝に結び付けるのでしょうか。事はそう簡単ではありません。第一に、倭人伝にいう「真珠」が何かは明確ではありません。それは「真朱」とは表記されていないのです。加えるに、それが仮に水銀朱だとしても、それを何の目的で用いたのかは不明のままです。

 また、同じ倭人伝に見える「丹」・「朱丹」などの意味も明確ではありません。赤土なのか、丹砂なのか分かりません。更にまた、ヒミコから魏へ献じた品物の中にも「真珠」の語が見えます。これは「シンジュ」なのでしょうか。だが、倭人伝の著者の陳寿は非常に正確な記事を書く人とされています。その人が、同じ書物の中で、しかも同じ倭人伝というごく狭い範囲の中で「真珠」という同じ表記を用いているのです。これも不思議と言えば不思議です。何とかして吉野ケ里をヤマタイ国に関連づけようとするために事を急いではならないと思います。赤色の研究は正に「これからの研究」ではないでしょうか。
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