即位式とカラス

即位式とカラス

即位式とカラス
『東アジアの古代文化』(第68号'91年夏)大和書房

① 即位式に用いられた銅烏幢の謎
② 力ラスと海人
③ 厳島神社の神鴉
④ 尾張海部郡の津島神社の鳥呼神事
⑤ 熱田神宮における鳥喰の儀
⑥ 備前国一宮の吉備津彦神社の霊烏
⑦ 紀州熊野新宮のオカラス
⑧ 塩飽本島の木烏神社
⑨ 天皇と海人とカラス
⑩ 結び
(付記)ヒキガエル


①即位式に用いられた銅烏幢の謎
 中央公論社発行『日本の古代、まつりごとの展開」に収められている「朝政・朝儀の展開」と題する論文の中で、橋木義則氏は次の如く述べておられる。

★ 「『文安御即位調度図」は文安元年(一四四四)に藤原光忠が書写したもので、福山敏男氏によると、保安四年(一一二三)から仁安三年(一一六八)までの間に行われたいずれかの天皇の即位に際して描かれたと推定され、内容的には平安後期までさかのぼるといわれる。この図には銅烏幢(どううとう)・日像幢の三本の幢(とう)と、蒼龍旗・朱雀旗・白虎旗・玄武旗の四本の旗とが描かれている。云々 。大極殿前庭に建てられた七本の宝幢には、鳥形・日像・月像・蒼龍・朱雀・白虎・玄武が金属でかたどられていたり布に刺繍されていたが、云々。
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       (1)文安御即位調度図

宝幢
 高さ9mの柱の上に鳥・日・月を象った金属性のもの、あるいは四神を縫いとった旗をつけ5.7mの脇木で固定する。

 四神・日月像はいずれも中国思想を直接に受け入れたものと思われるが、鳥像の場合は日本独自のものと考えたほうがよいのではなかろうか。[文安御即位調度図]では鳥形を三本足に描いているが、もしこれが正しいとして中国の直接的な影響を受けたものだとすると、七本の宝幢のなかに同じ日の精である三本足の鳥が二羽いることになって、なぜ同じ鳥が二羽いるのか説明がつけがたいのではないだろうか。云々 。中国には鳥だけを取り出し単独で幢のモチーフに採用することはなかったようだし、またそうした背景となる思想も見出しがたい。

 鳥形についてもう少し子細にみてゆくと注意すべき点があるのに気がつく。第一に『銅鳥幢』 とも書かれるように、鋳銅製であったことで、それは黄色を表すためであったらしい。
『文安御即位調度図』 などには『色は黄なり』 と注記されている。黄色は五行思想では、五行で土、五方で中央を表す。

 古代中国では、皇帝は四方を表す四神を描いた旗とともに、皇帝の象徴として黄麟の旗を用いることがあった。黄色の鳥形幢も中国の旗の制度にならい、五行思想にのっとって、四神の旗とともに五方を表現したことはおそらく間違いないだろう。
しかし、中国の黄麟の旗が皇帝を象徴したのとは違って、鳥形幢は天皇を象徴したものではないと考えられる節がある。それは、まず、他の宝幢が朝廷に向けて建てられたと考えられるのに、この鳥形幢だけは天皇の方向に向けて建てられた点にある。『文安御即位調度図]などにはわざわざ『北に向く』 と注記が施されている。また、この鳥がヤタカラスであったとする記録もある。云々 。ではなにゆえに鳥がそうした重要な役割を果たす象徴として採用されたのかは、残念ながらよく分からない。」

 なお、橋本義則氏は図を用いて、銅鳥幢・日像幢・月像幢がいずれも高さ九メートルの柱の上に鳥・日・月をかたどった金属性のものであることも説明しておられる。さて、右文の終わりにあるように、橋本氏は、「なにゆえに鳥がそうした重要な役割を果たす象徴として採用されたのかは、残念ながらよく分からない」と結んでおられる。ということは、この疑問に対する解答はまだ出されていないということだと思える。
 そこで、ここではあえてこの疑問に挑戦してみることにしたい。
②力ラスと海人

 話は飛ぶようだが、福岡県の珍敷(めずらし)塚古墳の石室には、一人の人が舟に乗っていて、空には太陽らしいものがある絵が描かれている。ところが、その舟のへさきに一羽の鳥がいる。
問題は、この鳥である。何鳥か。また、何のために乗せているのか。
 これはカラスだろうと思える。
 では、なぜカラスだと分かるのか。その一つの理由は、同じ絵の中にヒキガエルらしいものも描かれているからである。
 即ち、古代中国人の思想にあっては、太陽の中のカラスと月の中の ヒキガエルはセットになっていたからである。

 では、仮にカラスだとして、それを乗せている目的は何かと言えば、海上で方角が分からなくなった時、カラスを飛ばすのである。舞い上がってどちらかへ飛んで行けば、その方角に陸地があるということになる。どこへも行かずに舟に戻れば、付近に陸地が見えないことが分かる。海の上では三○メートルも上がれば遥かに遠くが見える。だが、スズメでは小さくて見失いやすいし、あまり遠くまで飛ばない。トビは高く上がり過ぎるし、遠くまで飛び過ぎる。そうかといって鵜のような水鳥も困る。やはり陸の鳥でなければならない。どこにでもいて比較的つかまえ易く、かなりよく飛び、それに黒くて大きくて見失いにくいカラスが最も適当であったと思われる。

 「旧約聖書」に出てくるノアも、陸地を求めるのに、その箱船からカラスやハトを飛ばしている。
 古代の海人は航海に際して、いざという時に備え、常に何羽かのカラスを積んで出発したと考えられる。ということは、「カラス」と「海人」はセットとして考えてもよいということになる。連想ゲームではないが、「カラス」が出てくれば「海人」を連想してみる必要があるということである。

③厳島神社の神鴉
 カラスと海人がセットになっていると考えられる証拠として、厳島神社の「御鳥喰(おとぐい)式」の神事が挙げられる。安芸の厳島神社が海人に特別深い関係を持った神社であることは、その祭神が宗像大社と同じくイチキシマヒメ・タゴリヒメ・タキツヒメの三女神であること、および海上における厳島の位置などから考えても説明の要はなかろう。ところで、ここの 社務所発行「伊都岐島(いつきしま)」という書に、要旨次の如き記事が見える。

★ 「厳島神社の鎮座地はどうして今の位置に決まったのかといえば、それは神鴉(ごがらす)の 導きによったものだという伝承がある。その鴉は高天原から来た鴉だと言われている。その鴉を祭ったのが厳島の南端に近い末社の養父崎神社だが、ここでは今も昔から続いて御鳥喰(おとぐい)式が行われているのである。その内容は、神鴉に粢団子(しとぎだんご)を捧げるものである。神社では今も春と秋の二回、御鳥巡式が行われるが、これは文字の如く島を巡る神事であり、七浦神社祭とも言う。これは神がどこに鎮まろうかと島の周囲を巡られたのに倣った神事である。島の北にある杉之浦神社から始まり、島を右に見ながら鷹巣浦神社・腰少浦神社・青海苔浦神社と巡り、次が養父崎神社である。この養父崎神社で前記の如く神鴉に粢団子を供えるのが御鳥喰式で、これが最も重要なのである。
それから山白浜神社・須屋浦神社という順である。云々 。」

 また、臨川書店発行『神道大辞典』 の「カラスマツリ」の項には、厳島の御鳥喰式に関して次の如く記されている。
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         (2)厳島全島図

★ 「厳島の鳥喰神事は、昔、祭神この地に鎮座の時、宮処を定めたまわんとて巡幸のみぎりに、雌雄一雙の鳥飛び来って大神を嚮導し奉った故事に基づくもので、その霊烏の子孫相継承して今に至り、年々、子鴉を養育して相続す。子鴉成長すれば、これを率いて養父崎に出でて鳥喰(とぐい)を学ばしめ、親鴉は一里余を距る大野村の大頭神社に赴き、ここに鳥喰をなして後、遠く熊野に飛行してまた還らずといい伝え、神事は島巡祭の重要なる一部をなしている。

 船が養父崎に達する時、『祀官ふなばたにたち出、粢(しとぎ)を海上に浮かべ、鳥向楽を奏すれば、たちまちに霊鳥一雙嶺よりとび来たり、祀官の船に移り、波に浮かべる粢(しとぎ)を雄鳥まず下りてあぐ。次に雌烏また下りてあぐ。その時、前後の船、舷を叩き歓びの声を発してどよめくこと暫しは鳴りも止まず。

 とばかりありて、また雄鳥来たりてあぐ。すべて三度。大かた島巡りの多き時は、一日二三艘に及ぶことありといえども、次第みなかくの如し』 と『厳島名所図会』にあり。なお、『 三月の末より雌烏巣を作り、雛鳥一雙を育す。故に厳島島巡りに、四月のころは雄烏ただ独りのみ出づ。六月の末七月に至りては子鳥を率い、養父崎の神社に出て鳥喰上のことを学ばしむ。八九月の頃は親子二隻ともに出づ。しかるに、この二十八日に至りて親鳥一雙来たりて鳥喰をあげ終わりて行方を知らず。その翌日より子鴉一雙のみ養父崎の鳥喰に出づ。古より一年も違うことなし。』 とある。鳥喰式終わって島巡りの舟第五拝所山白浦に至り、山白神社の拝を終わると、亭主代御師船に来たり、鳥喰式滞りなく相済み、めでたき由を述べ、折重に角樽を添えて出し、祝意を表する習いである。」

 右文中の「子鴉成長すれば、これを率いて養父崎に出でて鳥喰(とぐい)を学ばしめ、親鴉は一里余を距る大野村の大頭神社に赴き、ここに鳥喰をなして後、遠く熊野に飛行してまた還らず」の末尾にある「遠く熊野に飛行して」の部分も興味をひく。というのは、後に述べるように、紀州の熊野もまたカラスと海人の両方に関係が深いからである。
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          (3)御鳥喰式

 ここで以上を整理すると、厳島神社における数ある神事(特殊神事)の中でも、春秋の二回行われる御島巡式が特別重要なものであること、更にその御島巡式の中でとりわけ大事なのが御鳥喰式であることが分かる。ということは、厳島神社においてはカラスが格別重視されていることになる。

 ところがこの神社は周知の如く海人と極めて関係が深い。故に、カラスは海人と深い関係があるという結論が出てくるのである。

④尾張海部郡の津島神社の鳥呼神事
 津島神社は、愛知県津島市神明町(旧地名は海部郡津島町向島)に鎮座する。旧国幣小社。式内社ではないが、平安時代以来の大社。ここの川祭は提灯祭・船祭・天王祭などとも呼ばれ、世に名高い。
 この神社は海抜ゼロメートル地帯にある。古代の伊勢湾は神社の近くまで入りこんでいたが、神社の辺りは微高地であったようである。鎮座地「向島」の名からすると島になっていたのかもしれない。
 付近からは夥しい弥生土器、近くの奥津社からは三角縁神獣鏡三枚(その中の二枚は山城の椿井大塚山古墳のものと同笵鏡)が出ているし、尾張最古の前方後円墳とされる二ッ寺神明社古墳(被葬者を海部の最高支配者とする説もある)も極めて近いことなどから、神社の付近は尾張で最も早く開けた地域であったことが考えられる。
 また、この地域を流れる木曾川・揖斐川などをはじめとする諸河川や伊勢湾との地理的位置関係、あるいは津島から桑名に渡る航路を「津島渡し」と呼んでいたことなどから見て、古代のこの地域が海人と極めて関係の深かったことは確かであろう。
 更に、この地域が早くから開けたこと、および海人と関係が深かったことは次の古記録からも明らかである。

★ 『和名抄』に「海部郡」の名が見える。同郡内には「海部郷」も含まれている。

★ 『天神本紀』に「天背斗女命は尾張中島海部直等祖」とある。
 「中島」の地名は「和名抄」にも「中島郡」と見え、海部郡のすぐ北に接している。ここには尾張氏の祖を祀ったとされる尾張国一宮の真清田(ますみだ)神社が鎮座しているし 、国府宮・国府祉などもある。

★ 『 古事記』に、崇神天皇の妃として「尾張連の祖、意富阿麻比売(オホアマヒメ) 」の名が見える。 この「阿麻」 は海部に関わる可能性がある。女性首長と思われるが、海人は女神・女性首長などと関係が深いという側面を持つ点からしてもつじつまが合っている。

 以上の諸点から見て、津島神社の鎮座する海部郡を中心とする地域が古代の海人と関係が深かったことは確かと思えるが、この神社でも「海人」とセットになっていると考えられる「カラス」に関わる「鳥呼神事」が行われているのである。以下は津島神社の社務所で見せて頂いた「鳥呼神事」に関する古記録の要旨である。

★「烏呼神事。張州雑志には屯倉(みやけ)供祭(くさい)と呼び、恒例正月二十六日に執行する。中島郡平和町三宅の里が神供をもたらし、三宅の神職・工女・里人が奉仕する。三宅の里から神供を献じる縁由は定かでない。古来三宅の天王社は津島神社の古殿地だからとする説もあるが、確証はない。式中に神供の粢(しとぎ)(赤飯)を本殿および八柱社の屋根上に『ホーホー』 と言いながら投げて烏に与える所作がある。烏呼神事と呼ぶ所以である。だが、その縁由は明らかでない。」

右記中の「三宅」の地は、「和名抄」にも「尾張国中島郡三宅郷」と見えているが、吉田東伍氏の著『大日本地名辞書』の「中島郡三宅郷」の項には、次の如き記事が載せられている(要旨)。

★ 三宅村に鎮座する生桑(いくは)神社は、新撰姓氏録に的(いくは)の臣は建内宿祢男、葛城襲津彦命の後なりとあるから、紀氏の祖神を祀ったものか。一方、津島神社の摂社の弥五郎殿の社は、堀田弥五郎がその祖神(建内宿祢)を祀ったものというから、おそらくは三宅の生桑の神を勧請したものであろう。また、津島神社は、はじめ三宅にあったが、洪水で流れたので津島の地に移されたというが、実否は明らかでない。だが、今も三宅の天王社は津島の元宮だと言い伝えている。」

 以上を整理すれば、津島神社の「烏呼の神事」に、いまひとつ確かでないにしても、その元宮の地とされる三宅の人たちが深く関わっていることは、この神事の起こり、換言すれば、津島神社の神とカラスの関わりが古に遡る可能性が大きいと考え得ると同時に、古にあってはこの神事がこの神社にとって決して付け足し的な儀式でなく、重要なものであったことの証拠だと言えるのではなかろうか。しかも、この神社の辺りは前記の如く海人と極めて関係が深い。故に、ここでも海人とカラスはセットになっているとすることができよう。

⑤熱田神宮における鳥喰の儀
 熱田神宮が、その位置からしても海、ひいては海人と関係が深いと考えられることは説明の要はなかろう。では、カラスとの関係はどうかというに、ここにも「鳥喰の神事」があるのである。
 以下は、熱田神宮宮庁発行の『熱田神宮』 と題する書、および神宮所属の研究員の方から承った話などから知り得た「鳥喰の神事」の要旨である。

★ 「摂社の御田神社(式内社)では、この社の祈年祭・新嘗祭の時に奉る神饌は、先ず鳥に食べさせる信仰がある。即ち、ホーホーと鳥を呼びながら神饌の御供(粢団子)を土用殿(どようでん)の屋根の上に投げ上げる。それを三度繰り返す。昔は烏が来て御供を食べなければ、祭典が行われなかったという。古記録には『烏喰。厨家以粢伝祝長、又祝一人相添、至大宮白洲、以粢与烏。烏不食者、不始神事。』 と見えている。

 なお、右の土用殿は、現在は本宮の御垣の外に位置しているが、昔は本殿の東に相並んで鎮座せられ、神宮の御神体の御剣を奉安した御殿である。」

 右に見るように、「土用殿」は神宮にとって極めて重要な建物であるが、吉田東伍氏の『大日本地名辞書』 の「熱田神宮」の項には、次の如く記されている(要点)。
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       (4)熱田神宮宮域図
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        (5)土用殿

 御剣を奉安した御殿で、本殿の東に相並んで鎮座せられていた。
 いまの神楽殿の東北隅がその址地である。様式は宝庫造、俗に井楼組(せいろうぐみ)の造で、桁行一間四尺四分、梁間三尺五寸五分、屋根切妻桧皮葺で箱棟であった。永正十四年(1517)将軍足利義稙の造営と伝え、天文十一年(1542)修造せられている。なお昭和四十六年古式のままにもとの地に復元せられた。

★ 「神宮の神殿二宇、東西に相並ぶ。土用殿東にあり、神剣を鎮奉る。正殿西にあり、後世四座の神を配奉る。号て大宮五座という〔国内帳集説〕 。吊略)按ずるに、四神を相殿とせしこと、その始め詳らかならず。本社所蔵承和十四年(八四七年)文書に神体五躯とあるによらば、承和以前より然ること著明し、天照大御神・素盞鳴尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命五座の神、相殿に坐す。これを正殿と称して西方にまし、神剣は土用殿と称して、東方にませりという。」

 以上から、土用殿が熱田神宮において如何に重要な、というよりか最も重要な御殿であったかが知られるであろう。ところが、「鳥喰の儀」は摂社の御田神社に関わる神事ではあるが、その粢団子を投げ上げるのが土用殿の屋根なのである。ということは、「鳥喰の儀」が、換言すればカラスが土用殿に何らかの関わりを持っていることになる。だが、土用殿は建物であり、そのものが信仰の対象ではない。はっきり言えば、カラスが関係しているのは、その中に祭られている御神体そのものである可能性が考えられるわけである。
 一つの仮説は・カラスは本来、熱田の神の御崎(みさき)であったのかもしれないということである。これまで見てきた厳島神社や津島神社におけるカラスも、古にあっては同じように御前であった可能性が考えられる。

⑥備前国一宮の吉備津彦神社の霊烏
 カラスと海人が深い関係にあると考えられる証拠は、備前国の一宮吉備津彦神社にも見られる。当社の社務所が発行した『吉備津彦神社史料』 の中に「備前州一宮密記」という文書が収められている。これは当社の正殿をはじめ摂社・末社などの祭神すべてをまとめたものである。その中に「八島殿」と題して次の如き記事が見える。

★ 「八島殿。本壇之内有石。称神座。備供之時、先備八島殿。而後、献正宮。即是社例伝習也。備八島殿之時、霊鳥来彼石上、啄備供。是為八島之宦者故也。」

 これからすると、この神社では以下のことが「社例伝習」とされていたことが分かる。

(1)お供えをする時は正宮より八島殿の方を先にすること。
(2)八島殿の神座は石だが、お供えはその石の上に置くこと。
(3)霊鳥が来て、石の上のお供えを啄むこと。

 更に、同じ「吉備津彦神社史料」の中に収められている「神前供物下方書附」(元禄十六年癸未五月朔日、御神前御備物下方書附)にも八志摩殿(やしまでん)に関して次の如き記事が見える。

★ 「忽而本社御膳ヲ備ル時、八志摩殿とて本社之地内ニ而御供ヲ備祭、霊烏也。」

 その他、八島殿は「岡山県通史」にも記載されている。即ち、吉備津彦神社の「古代御社図」と題する境内図に、「御包丁人八島殿」として位置が記入されているし、「二間三間こけらぶき也」との説明も加えられている。なおまた、前掲「備前州一宮密記」に記されている「八島殿。本壇之内有石。称神座。云々。」の「石」は、桜谷の傍らに現存している。それは高さ約1m・横巾約3m・奥行き約1mの自然の岩である。
 以上から、この神社でカラスが重んじられていたことは間違いないと言えよう。
ところが、この神社は海人との関係が極めて深いのである。
それは一口に言えば、この神社の神体山である吉備の中山が吉備の海人の一大根拠地であったと考えられることである。
 そう考えられる証拠は多々あるが、この事に関しては既刊『古代日本と海人』(大和書房)の中で詳しく述べたのでここでは簡単に触れるに止めたい。

 例えば、この神社に伝わる特殊神事「お幡祭り」のお幡が船の帆をかたどったものであること・明治時代まではこの神社の神池が児島湾と舟で結ぼれていたこと・吉備の中山の麓に吉備津という津地名のあること・吉備の中山の頂きには矢藤治山弥生墳丘墓(楯築弥生墳丘墓よりやや後のもの)および吉備中山茶臼山古墳(吉備地域における最古の前方後円墳)があるが、両者は共に児島湾がよく見える位置にあるので、当時の海人の首長墓と考えられることなどである。

 以上を整理すると、吉備津彦神社、および吉備の中山を中心とする地域にあっても、海人とカラスがセットになっていたと言えるのではなかろうか。
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(6)備前一宮吉備津彦神社の八島殿の神座の岩。この岩の上に霊鳥に供える供物を置いた。

⑦紀州熊野新宮のオカラス
 熊野新宮大社から出ている牛王(ごおう)神璽(しんじ)は、周知のように、何羽もの「カラス」を組み合わで図案化した「カラス」文字を刷ったお符で、「オカラス」とも呼ばれている。このお符は新宮だけでなく、那智大社や本宮大社からも出されている。この地域では、カラスは熊野権現のお使いとされているのである。

 更に、記紀に出てくる「ヤタガラス」もまた熊野においてのことである。一方、熊野の新宮の辺りが、古来、海人の根拠地として知られていることは説明不要であろう。したがって、ここでもカラスと海人はセットになっていると言い得る。

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   (7)速王大社「熊野牛王」

⑧塩飽本島の木烏神社
 香川県丸亀市の北に位置する塩飽本島は、瀬戸大橋からもよく見えるが、この島が古来海人の大根拠地であったことは周知のことである。
 ところが、この島にカラスを祭った「木烏神社」が鎮座しているのである。伝承によれば、日本武尊が筑紫に向かう途中、濃い霧で船が立往生した時、カラスが水先案内したという。そのカラスを祀ったのが木鳥神社である。ここでもカラスと海人はセットになっている。

⑨天皇と海人とカラス
 以上、いくつかの例を挙げて、カラスが海人と関係深いことを述べた。ここで、最初の疑問に戻る。 それは、「なにゆえに烏がそうした重要な役割を果たす象徴として採用されたのかは、残念ながらよくわからない。」という天皇の即位式に用いられる「銅烏幢」に関する橋本氏の疑問であった。

 この疑問は、換言すれば、「カラスと天皇の間に何か特別な関係があるのではないか」ということになる。結論から言えば、筆者は、カラスと古代の天皇は関係が深かったと考えているものである。

 ところで、これまで見てきたようにカラスは海人とセットになっている。したがって、カラスと天皇が関係深いことを証明するには、天皇が海人と関係深いことが証明できればよいことになる。つまり、天皇とカラスが直接結びつかないとすれば、両者の間に海人を入れて考えればよいということである。海人は天皇とカラスの共通項だと言ってもよい。

 もっとも、天皇とカラスが直接結び付く証拠があれば、それが最上であることは言うまでもない。その代表は、誰もがすぐ思い浮かべるヤタガラスであろう。

 橋本義則氏も前掲文の中で、「銅烏幢のカラスをヤタガラスとする記録もある」と述べておられる。だが、これは、カラス中での最高位を与えられているヤタガラスの知識が先にあって、後から銅烏幢をそれに結びつけて解釈したものに過ぎない。また、前記の厳島神社の鎮座に関する伝承の中に出てくるカラスもヤタガラスだとされるが、これも、海人たちの間に古から厳島に関わるカラスの伝承があったが、そのカラスが後に最高位のヤタガラスに結びつけられたものと考えられる。何れにしても、これらの説や伝承は記紀編纂以後のものとしてよいと思われる。

 だが、記紀にヤタガラスが出てくること自体は重要である。
 このカラスは相当重要な役目をするが、この場合、神武天皇のガイド役はスズメとかトビとか、あるいはサルとかシカとかでなく、なぜカラスなのであろうか。ニニギノミコトを案内したのがサルタビコだったので、話に変化をつけるために今度はカラスにしたのだろうか。記紀には金色のトビが出てきて神武天皇を助ける話もあるが、これはガイド役ではない。
 ここでは「ガイド」という点が大切なのである。

 神武天皇のガイドにカラスが出てくる理由は、一応、次の如く考えられる。それは、古代中国の思想にあってはカラスは太陽の中にいるからである。ヤタガラスは神武天皇が道に迷った時に高天原から派遣されたことになっているが、高天原にいる天照大神は太陽とされているから、高天原からカラスが派遣されることは中国の思想と話が合う。記紀の編者は既にこのことを知っていたのであろう。
 だが、ここで注意せねばならない点は、中国思想における太陽の中のカラスにはガイドの性質はないことである。だが、ヤ夕ガラスはガイドである。では、カラスをガイドとする思想はどこから出てきたものであろうか。
 記紀に出てくるヤ夕ガラスは陸地、それも山中のガイドである。だが、海上で陸地の方向が分からなくなった時、カラスをガイドとして用いたのは海人であったはずである。そうだとすれば、神武天皇に協力していたのは海人、少なくとも海人の思想を持った人たちではなかったかということになってくる。

 記紀には、ニニギノミコト(天皇の先祖)は高天原から日本列島に降りて来たと記されている。その時のガイドはサルタビコであったが、これは「サル」だかち、やはり陸地とか山とかのガイドだと思いやすい。しかし、高天原という天空のような所から人が降りてくることは事実ではなかろう。日本列島は周囲を海で囲まれているから、ニニギノミコトは海外のどこからか舟でやって来たと考えるのが自然である。そうだとすれば、そのガイドをしたサル夕ビコは優秀な海人の頭目に違いない。筆者は、ニニギノミコトの出発地は長江下流地域であり、その到着地は鹿児島県のカササノミサキだと推測している(この点の詳細は、前掲『古代日本と海人』を参照されたい)。

 これと同様に、一般に人は、ヤタガラスも山中のガイドだから、陸地に属するものと思い込みやすいのではなかろうか。
 少なくとも、それが海に関わるものだという発想をしにくいのではなかろうか。しかし、日向から発した神武天皇の東進は、海人の協力を抜きにしては考えられない。筆者は、その海人は、隼人と吉備の海人だと推理している(この点の詳細も、前掲『古代日本と海人』を参照されたい)。ということは、熊野に上陸して以後も、神武天皇の軍勢には海人、少なくとも海人と同じ思想・信仰を持った人たちが多く所属していたことになる。その故に、そこに「カラスをガイドにする」という思想・信仰に関わるヤタガラスが登場してきたものではなかろうか。

 以上要するに、天皇の祖先は、本来、海人と関係が深く、その故にガイドとしてのカラスと関係が深かったと考えられるのである。

 更に筆者は、応神天皇もまた長江下流地域から発して鹿児島の大隅に渡来し、その後、隼人と吉備の海人に支持されて、宇佐を経て瀬戸内を東進し、吉備に根拠を置いた上で、河内に前進基地を設けたものと推測している。大阪市東淀川区大隅(応神天皇の大隅宮の所在地)や住吉の地は、応神天皇に従属する海人たちの根拠地であったと思わわる。そして、この天皇の没後、その子孫(履中・反正・允恭天皇)の時代に大和盆地に入ったものと推理している(以上の詳細も、前掲『古代日本と海人』 を参照されたい)。つまり、古代史の中で極めて大きなウェイトを持つ応神天皇もまた、海人と極めて深い関係があったというわけである。ということは、古代史の中で大きなウェイトを持つ神武・応神の両天皇ともに海人に極めて深い関わりを持っていることになる。そうだとすれば、古代の天皇家の中に、更には天皇家を中心とする勢力の中に海人の思想・信仰が入り込んだ可能性は充分あると考えてよいのではなかろうか。
 その傍証の一つとして、記紀の中に出てくる歌謡には海人・水人の知識に基づくものが多数みられることも挙げられる。
 加えるに、古代の交通・運搬にあっては、陸の遣路よりも海路や河川の方が重要であったことは明らかだが、そうした面からも、天皇が列島を統一支配するためにも、更には朝鮮半島との連絡のためにも、海人は極めて重要な存在であったことは確かである。そのような一般的な観点からしても、海人は天皇や支配者にとって大切であった。

⑩結び
 ここで結論にはいるが、前記の各神社、特に厳島神社や熱田神宮などに伝わるカラスに関わる神事からすると、古代の海人たちは、カラスを自分たちが崇める神の「御前(みさき)」として考えていた可能性が大きいと思われる。御前は神の先払い・前駆である。これまで問題にしてきた「ガイド」は御前と似ている。ヤタガラスを神武天皇の御前と見ることもできるであろう。
 そして、このように考えることは、最初に掲げた橋本義則氏の所説に矛盾しないばかりか、或る部分では一致しているとも言える。即ち、今必要とする部分をもう一度掲げれば次の如くであった。

★ 「中国の黄麟の旗が皇帝を象徴したのとは違って、烏形幢は天皇を象徴したものではないと考えられる節がある。それは、まず、他の宝幢が朝廷に向けて建てられたと考えられるのに、この烏形幢だけは天皇の方向に向けて建てられた点にある。云々 。」

 以上で注意すべき点は、「中国の黄麟とは異なり、カラスは天皇を象徴したものではない」ということである。しかし、天皇の象徴でないにもかかわらず、鳥形幢、言い換えればカラスは即位式の場において極めてというよりか、見方にもよるが、最も重要な存在として扱われているのである。橋本氏も、そこのところが「わからない」とされたのであった。してみると、この疑問に対する正解は、古代にあっては「カラスは天皇の御前」と考えられていたとする以外にないのではなかろうか。
 くどいようだが、銅烏幢のカラスを直接ヤタガラスに結びつけてみても、説得力のある解答は得られないであろう。
 「海人」を「天皇」と「カラス」の共通項とする考え方が当を得ているのではなかろうかと思うものである。

(付記)ヒキガエル
 以上の論をいくらかでも補強するものとして「ヒキガエル」がある。結論から言えば、「ヒキガエル」と「カラス」はセットになっていると考えられるからである。ヒキガエルは、『和名抄』 には「蟾蜍」と表記され、次の如き説明が加えられている。
★「蟾蜍。兼名苑注云蟾蜍。(中略)和名、比木。似蝦蟇而大、陸居者也。」

 文中の[比木」が「ヒキ」である。平凡社の百科事典の「ヒキガエル」の項にも「蟾蜍」と表記し、ガマの一種であり、皮膚にイボが多く、そこから出る毒液には強心作用があること、筑波山で代表されるガマノアブラもこの分泌液から造ると説明してある。また、「ガマ」の項を見ると、「蝦蟇」と表記され、俗に「ヒキガエル」と呼ばれているとある。そして、次の如き古記録が紹介してある。
★ 太宰府言。肥後国八代郡正倉院北畔、蝦蟇陳列広可七丈、云々 。」(『続日本紀』 二九)
★ 「蝦蟇二萬許、(中略)従難波市南道、南行池列可三町、云々 。」(『続日本紀』 三八摂津職言)
★ 「蟾蜍千歳すれば、頭上に角あり、腹下丹書あり、名けて肉芝という。能く山精を食う。人得て、これを食う。仙術家取りて用ゆべし。以て霧を起こし雨を祈り兵を辟け自ら縛を解く。云々。」(『抱朴子』)

 こうして見ると、日本でも中国でも、古代人は(ヒキガエル」に何か霊的なものを感じていたように思えてくる。忍者も「ヒキガエル」に化ける。特に、『抱朴子』 などに書かれているところから察すると、「ヒキガエル」は道教と関係があるのかもしれない。

 更に、[古事記]にも、次の如き記事が見える。

★ 「大国主命、出雲のミホのみさきに坐す時、波の穂より天のカガミの船に乗りて、ヒムシの皮を内剥ぎに剥ぎ、衣服にして、より来る神あり。ここにその名を問ひたまへども答へず。また、所従の諸の神に問ひたまへども、皆『知らず』 と申す。ここにタニグクまをさく、『こはタエビコぞ必ず知所りたらむ]とまをせば、即ちクエビコを召して問ひたまふ時、『こはカムムスヒの神の御子スクナビコナの神ぞ』 と答へまをしき。云々。」

 文中の「クエビコ」は「カカシ」である。大国主命の周囲の誰もが知らないことを知っていたのは「カカシ」だが、「カカシ」が何でも知っているということを知っていたのは「タニグク」だということになる。ところが「タニグク」は「ヒキガエル」なのである。その意味に関して、ある学者は「谷を潜ることからの命名」だとしている。それにしても「ヒキガエル」は何か不思議な力を持っている。

 また、文中のスクナビコナは、大国主命と協力して国を作り堅めた後、「常世国」に行ってしまったというが、この「常世国」も長江下流地域の可能性が大きい。そこには道教の大霊地「茅山」もある。ところが「カカシ」も南方地域と関係が深いと言われる。だから「カカシ」が、自分の故郷と同じ辺りに関係を持つスクナビコナを知っていたのかもしれない。そしてまた、「カカシ」のことを知っている唯一の存在であった「ヒキガエル」もその辺りと関係があるのではないかと思えてくるのである。

 出雲の辺りが、対馬海流によって、長江下流地域と結ばれていたと推理できる証拠は、この他にも数多ぐ挙げることが可能である。
 伊勢の地主神は興玉(おきたま)神とされている。この神を祀る興玉神社の鎮座している二見では「カエル」の置物を売っている。それは「カエル」が興玉神(サルタビコ)の使いとされているからである。そのサルタビコはニニギノミコトを長江下流地域からカササノミサキへ案内した隼人の海人であり、彼の根拠地は伊勢にあったと推理される(詳細は「古代日本と海人」を参照されたい)。

 どうも「カエル」は長江下流地域の何かにつながっているように思える。同じ長江下流域の馬王堆漢墓の帛画にも、太陽の中には「カラス」がいるが、月の中には「ヒキガエル」が描かれている。

 紀州熊野の新宮大社が出しておられる牛王(ごおう)神璽は、周知のように、何羽もの「カラス」を組み合わせて図案化した「カラス」文字を刷ったお符で、「オカラス」とも呼ばれている。ヤタガラスは熊野権現の使いとされているのである。

 「熊野権現御垂迹縁起」によれば、熊野速玉大社(新宮)の神は、最初に、新宮の南に位置する「神蔵峰」(神倉山)に降りたと伝えられているが、この山に鎮座する神倉神社のご神体が山上の「ゴトビキ岩」で、この岩がイワクラであることは周知のことである。この岩の根元からは銅鐸が出土しているから、ここでの祭りは弥生まで遡ることができると考えられる。

 また、この神社の祭神は「高倉下命(たかくらじのみこと)」だが、記紀によれば、イワレビコノミコトをはじめ軍兵全員が大熊の毒気に触れて気を失った時、「高倉下命(たかくらじのみこと)」が太刀を献上したので、ミコトはその太刀で熊野の荒ぶる神を切り倒すことができ、軍兵たちも正気に返ったという。そして、その太刀は高天原から下されたもので、その名はフツノミタマと言い、後に石上神宮に祀られたということも記紀に記されている。

 また、『日本書紀』 のみだが、イワレビコノミコトが熊野の「天磐盾(あめのいわだて)に登ったと記している。通説では、この「天磐盾(あめのいわだて)」とは「神倉山」のこととされている。ここで大切なことは、なぜイワレビコミコトがこの山に登ったかである。それは、彼に協力していたのは海人たちであったはずだが、海上からはっきり見える「ゴトビキ岩」は海人たちの恰好の目当てであり、そのため彼らに崇敬されていたからだと推測して間違いあるまい。

 ところが、「ゴトビキ岩」の「ゴトビキ」とは「ヒキガエル」のことで、熊野の北に当たる吉野でもゴトビキと呼んでいる。「ビキ」が「ヒキ」である。こうなると、熊野では「カラス」と「ヒキガエル」がセットになっていることになる。馬王堆でも「カラス」は太陽の中、「ヒキガエル」は月の中にいて、両者はセットになっている。

 「カラス」は海人や長江下流地域と関係が深い。神武天皇は隼人が出発地だが、その先祖のニニギノミコトは長江下流地域から渡来したと推理される。加えるに、熊野の辺りには徐福の遺跡もある。中国の大学の或る先生は「徐福は神武天皇だ」と言っておられる。また、観音信仰の面では、熊野の浜は長江河口の舟山列島に通じていると言う。また、吉備真備の船も長江下流から出て隼人まで帰ったが、そこから流されて熊野の岸に漂着している。あれこれ考えていると、「ヒキガエル」は、いよいよその怪しげな魅力を増してくるのである。

(古代思想研究者)


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