古代備中国の中枢部と秦氏

古代備中国の中枢部と秦氏

古代備中国の中枢部と秦氏
『東アジアの古代文化』(第95号'98年春)大和書房

一、秦原廃寺
二、葉田の葦守の宮
三、湛井堰
四、石畳神社
五、姫社神社
六、正木山
付記H 古墳、および三角縁神獣鏡


一、秦原廃寺
 この廃寺は岡山県総社市秦(はだ)にある(略地図参照)。この辺りは『和名抄』にいう「備中国下道(しもつみち)郡秦原(はだはら)郷」で、渡来氏族秦(はた)氏の居住地と思われる。そうだとすれば、この辺りは古代の先進地域であったはずだが、それを裏付けるのが飛鳥時代の創建とされる寺跡の存在であり、秦原廃寺(または秦廃寺)と呼ばれている。岡山県には天平や白鳳の寺跡はかなりの数知られているが、飛鳥時代のはここ一つだけである。立派な塔の心礎が残っているし、当時の瓦も見つかっている。したがって、県下で最古の寺がここにあったことになるが、これは非常に重視すべきことと言わねばならない。なぜならば、古代の有力者たちが権力誇示のために注力した造営物は、初め古墳であったが、それが寺院に代わっていったとする見解が広く行われているからである。「古墳は止めにして寺院を」は当時の進歩的思想であり、それが全土へ広がっていった。

Pasted Graphic 30
                  略地図

 したがって、吉備における最古の寺を建てた人は吉備における最先端をゆく人であったことになる。こうなると、この寺の辺りは吉備の「先進地域」(前記)ではなく、「最先進地域」であったと言った方がよいかもしれない。この寺は、秦氏の氏寺であったと推測される。

 秦氏の本拠は、一般に京都市嵯峨の辺りから映画の撮影で有名な太秦(うずまさ)にかけての地域とされている。彼らが信仰の拠り所としていたのが嵐山や渡月橋に近い松尾大社であり、国宝の弥勤菩薩像で知られる太秦の広隆寺は秦氏の氏寺とされている。だが、秦氏の最古の本拠は、吉備の総社市秦を含む一帯であった可能性が極めて大きいと、私は考えている(そのように推測される理由は後述)。

 山城の秦氏の名が有名になったのは、長岡京の造営、とりわけ平安遷都以後のことで、日木列島に渡来した秦氏は、先ず吉備に住み着き、それから東へ進出して山城などへも広がっていったものと思われる。こうした観点からすると、秦原廃寺は吉備における最古の寺であるのは勿論、もしかするとわが国最古の寺である可能性もある。

Pasted Graphic 31
      総社市秦(はだ)の秦原廃寺阯にのこる塔の心礎と礎石

二、葉田の葦守の宮(はだあしもりみや)
 『日本書紀]応神天皇二十二年条に、次のような記事が見える(以下の原文は岩波書店刊『日本書紀』による)。

 「二十二年の春三月(中略)、天皇、難波に幸(いでま)して大隅宮に居します。(中略)高台(たかどの)に登りまして遠(はろか)に望(みそなは)す。時に、妃兄媛えひめ侍り。西を望(おせ)りて大きに歎く。兄媛は、吉備臣の祖御友別(みともわけ)の妹なり。(中略)天皇、兄媛が温情之情(おやおもふこころ)篤きことを愛でて、則ち語りて日はく、『爾(いまし)二親を視ずして既に多(さは)に年を経たり。還りて定省(とぶら)はむと欲ふこと、理(ことわり)灼熱(いやちこ)なり。』 とのたまふ。

 則ち聴(ゆる)したまふ。よりて淡路の御原の海人(あま)八十人を喚して水手(かこ)として吉備に送す。(中略)天皇、便ち、淡路より転(めぐ)りて、吉備に幸して小豆嶋に遊びたまふ。

 (中略)葉田(はだ)の〔 葉田・此(これ)をば簸娜(はだ)と云ふ。〕 葦守宮(あしもりのみや)に移り居します。時に、御友別参赴(まうけ)り。則ち、その兄弟子孫を以て膳夫(かしはで)として饗奉(みあえつかまつ)る。天皇、是に、御友別が謹惶(かしこま)り侍奉(つかえまつ)る状を看(みそなは)して悦びたまふ情有します。因りて吉備国を割きて、その子等に封(ことよ)さす。(中略)ここを以て、その子孫、今に吉備国に在り。」

 以上の要点は次のようなものである。
 「応神天皇の妃兄媛は吉備出身であった。天皇が淀川べりの大隅宮に居た時、兄媛が故郷を懐かしく思い、吉備へ帰りたいと言うので許可した。ところが、天皇は兄媛が恋しくなって、吉備に出向き、葉田の葦守宮に逗留した。兄媛の兄の御友別は一族を挙げて天皇を歓待し、帰順の意を表した。天皇は大いに悦び、吉備国を割いて、御友別の一族それぞれに領地を与えた。」

 この記事は、吉備の古代史研究上、否、わが国の古代史研究上、多くの人たちから非常に重視されているものであるが、注意すべきは、「葉田(はだ)の〔葉田、此(これ)をば簸娜と云ふ。〕 葦守宮」の部分である。〔 葉田、此をば簸娜と云ふ。〕 のところは、ひとまわり小さい字が用いられている。その意味は「葉田は簸娜のこと」ということであろう(追記参照)。注のようなものである。故に、〔 〕 内を飛ばして読めば、「葉田の葦守宮」となる。

 「葉田」については、岩波書店刊『日本書紀』の注には、「葉田は地名辞書に備中国賀夜(かや)郡服部郷(岡山県総社市東部)とするが確かでない。」と記されている。定説はないということである(追記参照り。だが、「葦守」は『和名抄』にいう「備中国賀夜(かや)郡足守(あしもり)郷」(岡山市足守)とするのがほぼ定説で、今の葦守八幡宮が「葦守宮」跡と伝えられている(略地図参照)。

 したがって、「葉田」は今の足守を含むかなり広い地域を指す地名であったと考えられる。ところで、『日本書紀』の記事から見て、「御友別」が当時の吉備第一の有力者であったことは疑う余地がないので、彼が住んでいた「葉田」は古代吉備の中枢部であったとして間違いない。ところが「葉田」は「秦」に通じる(追記参照)。

 果して「葉田は秦」ならば、「御友別」は秦氏の居住地内に住んでいたことになるし、秦氏の居住地(葉田)は当時の吉備の中枢部の地に重なってくる。そして、それは応神天皇の生存時期のことである。

Pasted Graphic 32
岡山市足守に鎮座する八幡宮。拝殿には「葦守八幡宮」の額が掲げられている。社地は丘上にある。

 東大教授(古代史)であった井上光貞氏は『日本国家の起源』 (岩波新書)の中で、応神天皇の生存時期に関して、要旨次のように述べておられる。

 「倭の五王当時の皇室の外戚として重きをなしたのは、葛城氏と日向の諸県君(もろがたのきみ)とであり、共に史実とみるべき可能性が大きい。葛城襲津(ソツ)彦は間違いなく実在の人物である。
 ソツ彦は『百済記』によると、三八二年に朝鮮に派遣されているが、ソツ彦は応神と同世代であるし、南朝の史書『宋書』 や『古事記』などの記事から推して、応神は三七〇年から三九〇年頃に在位していた天皇とみられる。したがって、古代史上、実在の確かな最も古い人は、皇室では応神、氏族ではソツ彦である。」
 以上からすると、応神天皇の生存時期は三八〇年頃ということになるから、「御友別」が吉備の「葉田」に住んでいたのも三八○年頃ということになる。そして、同時期の「葉田」には秦氏が定着していたことにもなる。こうなると、秦氏が吉備に渡来定着した時期は、秦原廃寺が創建された飛鳥時代(六○○年前後)ではなく、それをはるかに逆上る時期、即ち、応神天皇の生存時期(三八〇年頃)までを視野に入れて考えねばならないことになってくる。

 『日本の渡来文化』 (中公文庫)の中で、京大教授(古代史)上田正昭氏は山城の秦氏について、要旨を次のように述べておられる。

 「秦氏が嵯峨野の地域で勢力を持ってきた時期は、考古学的には五世紀の末あたりまではさかのぼらせることができるだろう。」・「山城に秦氏が勢力を持った時期は、五世紀後半以後という感じが強い。」

 以上から、山城で秦氏が勢力を持つようになった時期は、早く見ても四五〇年頃ということになる。吉備よりはかなり遅れるということである。したがって、前記の「秦氏の最古の本拠地は吉備の総社市秦を含む一帯である。」とする私の推側も当たっている可能性が大きいことになる。

(追記)上田氏は、同書の中で、要旨次のようにも述べておられる。「秦氏の祖先が中国の人であるという考え方は、八世紀末から九世紀の初頭以後に強まってくる。その頃になると、ハタに秦という字、秦漢帝国の秦という字をあてるようになる。だが、『姓氏録』でも別に波陀(はだ)としるしているし、『古語拾遺』 でも波陀という字を使っている。(中略)私は、秦氏は新羅系と考えてよいと思っている。」

 以上から、平安初期以前にあっては、秦は「波陀」と表記されていたことが分かる。そうだとすれば、吉備における秦氏のことを記す場合も、古くは「秦」以外の字を用いていたはずである。即ち、前記の『日本書紀』原文中の〔 葉田、此(これ)をば簸娜と云ふ。〕 に見える「葉田」とか「簸娜」は、「秦」氏の居住地を指している可能性が非常に大きいことになる。『和名抄』 では「備中国下道郡秦原郷」と記して「秦」の字を用いているが、これは平安前期に成立した書だから、その点に関しての不合理はない。

 なお、『和名抄』の「秦原郷」、『日本書紀』の「葉田」・「簸娜郷」、更には現在の総社市「秦」などが、すべて「ハタ」でなく「ハダ」と発音されている点も興味をひくところである。

(追記)「葉田」について、『岡山県通史』 (永山卯三郎著)には、要旨次のように見えている。

 「応神紀に見える『葉田の葦守宮』の葉田は、今のどこか。葉田の地は、東は上道郡の可知(かち)村、財田村大字土田(はだ)を限り、幡多(はた)村より旭川を越えて、吉備郡足守村大字土田、服部村を経て、高梁川の西岸秦原郷付近に至る一帯の地域を言ったものか。要するに、旭川・高梁川の両川の河口近く発達した沖積層一帯の平野を称したものと思われる。」

 文中の「上道郡」の「上道」は「かみつみち」で、備前国に属し、大有力氏族上道氏の本拠である。「可知」は、秦氏に関わる「勝部」の「かつ」・「かち」。「土田」は「つちだ」だが、「はだ」とも読めるようである。「幡多」は説明の要はないが、ここには白鳳の創建とされる廃寺があり、幡多廃寺と呼ばれていて、県下最大の塔の心礎が残っている。また、備前国府跡の有力候補地も近い。「服部」と秦氏の関わりは説明の要はない。

 右に見えるように、永山氏の言われる「葉田」は、実に広範囲な地域、即ち、備前と備中の両国(南部一帯)を含む地域で、分国以前の吉備の中心地域を指すものである。それはまた、『日本書紀』に見える「御友別」一族が、応神天皇から分け与えられたとされる吉備の地に相当するから、秦氏が居住していた範囲は、あるいは永山氏のお説のとおりかもしれない。しかし、秦氏の居住地全域を「葉田」と呼んでいたかどうかは別の問題であり、不明というほかはない。

 余談になるが、永山卯三郎氏は、戦前における吉備を代表する歴史家で、私が特に尊敬している方である。今日、県が多くの研究者を動員して編纂した何十巻にも及ぶ『岡山県史』 があるが、永山氏の『岡山県通史』 は今も決して価値の大きさを失っていない。不滅の光を放っている点で『大日本地名辞書』 (吉田東伍著)に匹敵する。特に、「地名考」と題する部分には、あっと驚くような卓見が数多く見られる。

三、湛井堰(たたいぜき)
 前記の秦原廃寺のすぐ近くに古来名高い湛井堰がある(略地図参照) 。高梁川をせき止めるもので、堰内に湛えられた水を用水路によって東岸一帯の水田に流すのである。この井堰によって恩恵を受けるのが古代吉備(備中国) の中枢部であったことを考えると、湛井堰はとびきり重要な井堰であったことになる。だが、この井堰が大きな働きをしていたのは古代に限られたことではなく、中世でも近世でも近代でも現代でも同じである。『平家物語』に名の見える備中の豪族妹尾太郎兼安が「十二カ郷用水」を整備した話は有名だが、これは湛井堰から高梁川の水を引いたものであるから、もしも湛井堰がなかったとすれば「十二カ郷用水」もあり得なかったわけである。ともあれ、湛井堰が吉備第一の重要な井堰であることは多言を要しない。

 さて、ここでの問題は、最初に湛井堰を築いたのはどんな人たちであったかということである。私は、それは秦氏に違いないと推測している。その理由は、前記のように、京都の嵯峨は秦氏の大拠点であったが、嵐山の下を流れる川にも大きな井堰が設けられているからである。川下りで有名な京都府の保津川は、その上流を「大堰川」と言うが、亀岡盆地を出て嵐山の下に来ると、再び「大堰川」(大井川)という名に変わる。そこを過ぎると今度は桂川の名に変わり、京都盆地を出る地点(男山丘陵。石清水八幡宮の鎮座地)で淀川に合流する。注意すべきは「大堰」は「大きな堰(せき)」だということである。この堰は、一般に秦氏が築いたものとされている。

 秦氏は井堰を造るのに優れた技術を持つ集団であったと思われる。そうであれば、総社市「秦」(秦原廃寺)と指呼の間にある「湛井堰」と呼ばれる吉備第一の「堰」も、最初の築造は秦氏によると考えて間違いなかろう。なお、総社市「秦」は湛井堰の西岸にあるが、東岸は総社市「井尻野」という。「井尻野」も湛井堰に関わる地名であることは言うまでもないが、前記の「十二カ郷用水」の取り入れ口もここにある。

Pasted Graphic 33
  湛井堰。高梁川をせきとめる吉備第一の井堰。対岸は総社市秦(はだ)。こちらの岸は
  総社市井尻野。取水口は井尻野に設けられていて、ここから十ニケ郷用水が発する。

(追記)山陽新聞社刊『岡山県大百科事典』 の中で、加原耕作氏は「湛井堰」の重要性と創設時期について、次のように述べておられる。

 「湛井堰は高梁川に設けられた井堰で、総社市中・東部、岡山市西部、倉敷市東部、都窪郡山手村・清音村(十二ケ郷)の平野部、約五○○○㌶を灌漑する湛井十二ケ郷用水(西日本有数の農業用水)の取水堰である。」・「この用水の創設は平安初期にさかのぼるという説もあるが、明らかでない。」

(追記)『大嘗会和歌集』 に、「財井(たからゐ)を題材とした二首が載せられている(大岩徳二氏の著「おかやまの和歌』 による)。

○ 「吉備の国財井をきて植ゑし 田のまづ大贄(おほにへ)におひあぐるかも」
 よみ人知らず。村上天皇、天慶九年、主基備中国風俗神歌。たからゐ。

 「財井」は、もとの賀陽郡井尻野村(今の総社市井尻野)の「湛井(たたい)」か。

 天慶九年は九四六年。大意は、「吉備の国の、財井の用水を引いて植えた田の稲が、何はさておき、大嘗祭に奉納できるように日に日に著しい成長ぶりであることよ。」

○ 「よろづ代の数にぞ摘まん財井のなぎさもかれず見ゆる白玉」

 作者は藤原家経。後冷泉院、永承元年、主基方備中国、財井。
 藤原家経は平安中期の歌人で文章博士。永承元年は一〇四六年。
 大意は、「万代という言葉のとおり、たくさん摘み取りたいものだ。財井の用水池の水際近く見事に実ったこの主基田の稲を。」

 以上二首の主題とされている「財井」 が、解説者の大岩徳二氏が言われるように、「湛井」のことだとすれば、九四六年、即ち平安前期には「湛井堰」は既に築かれていたことの証明になる。同時に、「湛井堰」が稲の豊作に大きく関わっていたことも知ることができる。

四、石畳神社
 石畳神社は総社市「上秦」に所在する(略地図参照)。『延喜式』神名帳には、「備中下道(しもつみち)郡石畳(いわだたみ)神社」と見えている。「いしだたみ」と発音する人もある。私の調査では、神名帳に載っている神社と同名の神社が現存していても、それが本物の式内社かどうか決めかねる場合はかなり多い。中には、鎮座地さえ不明になっている場合もある。そうした中にあって、石畳神社は一般に総社市上秦にある巨岩そのものを御神体として祭ったものとされていて、これに異論を唱えた人は未だいないようである。私も、これに異論はない。この岩の根元は高梁川の淵にあり、その姿は川岸にそそり立つ巨大な石柱である。誰が見ても、これだけの岩なら、古代人も祭らずにはおれなかったであろうと実感するような実に立派で堂々とした姿のイワクラである。

 だが、巨岩を御神体として祭ったというだけの説明では何の意味もない。一歩進めて、そこではどんな意味(目的)を持った祭祀がおこなわれたかを考えてみることが大切ではなかろうか。残念ながら、その点について述べた論説に私は未だ接したことがない。この点に関する私の考えは以下のとおりである。

 結論から言えば、この巨岩をヨリシロとして、高梁川そのものを対象とする祭典をしていたのではないかということである。簡明に言えば、川の祭祀である。

 古代中国で川を祭っていたことは『史記封禅書』 に記されている。即ち、『史記』の中で祭祀について述べた部分を『封禅書』 と呼ぶが、その中に、「天子は、天下の名山大川を祭る。」・「諸候は、その彊内の名山大川を祭る。」などの記事が見えている。古代中国では、山と共に川も祭っていたのである。そして、川を祭るには犠牲を水中に沈めるとか川岸に埋めるなどの方法が採られていた。ところで、著者の司馬遷は、前漢の武帝と同時期の人だが、武帝が朝鮮半島に楽浪郡を置いたこと、当時の日本列島(倭)の有力者たちが楽浪郡と往来していたことなどはよく知られている。

 そうしたわけで、漢の文化が楽浪郡を介して日本列島にもたらされた可能性は大きいが、『封禅書』に見える山や川を祭る宗教思想もまた日本列島に入ってきたものと思える。事実、古代の日本でも、山と共に川も祭っていた。古代祭祀の研究で著名な大場磐雄氏は『祭祀遺跡の考察』と題する論文の中で、要旨次のように述べておられる。

 『延喜式』神名帳には、川俣神社・川曲神社・小川神社・川合神社・大川神社など、川そのものを御神体とした神社が見えている。更に、相模国の一宮寒川(さむかわ)神社は相模川を、三河国の一宮砥鹿(とが)神社は豊川を祭った神社と思われる。」

 高梁川は、古代の人々にとって、水運と灌漑の両面において極めて大切なものであったに違いない。その高梁川が大きく曲がる地点、つまり、上流から流れて来た川水が突き当たる地点に川中からそそり立つ巨岩(石畳神社)は、大事な川の祭祀を行うのに恰好の神のヨリシロであったと考えられる。より大胆な推測を加えるならば、その祭りを司祭していたのは、同じ秦の地に居住していた秦氏の氏上であり、自分たちが築いた湛井堰の守護を高梁川の神に祈願していた可能性も考えられる。

(追記)山陽と山陰を結ぶ鉄道(伯備線)が全線開通したのは、昭和一二年(一九二八)のことである。それ以前の山陽と山陰を結ぶ交通・運搬は、主として高梁川の水運に負うところが大であった。特に、江戸時代から昭和初期までは、有名な「高瀬舟」が高梁川を上り下りしていた。なお、高瀬舟が、前記の「湛井堰」を起点としていたことも見逃せない。湛井堰は「舟溜まり」の役をしていたとも言えよう。

(追記)石畳神社(巨大なイワクラ)の管理祭祀を続けておられるのは、総社市秦一六五三番地にお住まいの小橋光一宮司である。

Pasted Graphic 34
 式内石畳神社に比定されている大石柱。巨木なイワクラ。
 手前は高梁川。右から左へ流れている。古道は川原にあったが今は岩をくりぬいてトンネルが作られている。


五、姫社神社
 前項の石畳神社(巨岩)を過ぎて、上流に向かって高梁川の西岸を進むと、間もなく道の左手に見えてくるのが姫社(ひめこそ)神社である(略地図参照)。鎮座地は今は総社市福谷だが、前記の「秦原廃寺」からの距離もそう遠くないし、『和名抄』にいう「下道郡秦原郷」の地に当たるので、古代に秦氏が居住していた地域として間違いない。注意すべきは、神社名の「ヒメコソ」という発音である。これは非常に珍しいというか、めったに耳にすることのない特異な神社名である。

 ところで、『古事記』の応神天皇の段に、要旨次のような記事が見えている。

 「新羅の王子天之日矛(あめのひぼこ)は美人を妻としていたが、王子が罵ったので、自分の故郷に帰ると言って、日本へ逃げ、難波(なにわ)に来た。彼女を祭ったのが、難波の比売語曾(ひめごそ)神社である。その後、王子も妻を追って日本に来て、ここかしこ遍歴した後、多遅摩(たぢま)国に住み着いた。」

 文中の「天之日矛」は古代史上有名な人物である。「多遅摩」は但馬国のことである。更に、『日本書紀』 垂仁天皇二年条(一書)にも、「難波のひめこそ比売語曾社の神」・「豊国の国前郡(みちのくちのくに)比売語曾(ひめごそ)社の神」などと見えている。

 『古事記』では「比売碁曾」、『日本書紀』では「比売語曾」で、字は違うが、両者とも「ヒメコソ」である。なお、両書にいう難波の「ヒメコソ」神社は、『延喜式』 神名帳には「摂津国東生郡比売許曾神社」と見えている。

 また、『肥前国風土記』には、要旨次のような記事が見えている。

 「崇る女神を鎮めるために神社を設けた。姫社(ひめごそ)という。そのため、その地を姫社郷と呼ぶ。」

Pasted Graphic 35
    姫社(ひめこそ)神社。ひっそりとしたたたずまいだが社地は広い。

 ここに見える「姫社郷」は今の鳥栖市の辺りとされている。以上のように、『古事記』 ・『日本書紀』 ・『風土記』などにその名が見えているということは、「ヒメコソ」が極めて由緒ある神社であることの証拠である。加えて、「ヒメコソ」が新羅と深い関わりを持っている点も注目をひく。

 では、吉備にも姫社神社があるのは何故なのであろうか。謎を解くヒソトは、その鎮座地が、前記のように、『和名抄』にいう「下道郡秦原郷」であるところにある。即ち、何度も言うように、この辺りは秦氏の居住地であったが、この氏族は朝鮮半島(新羅)から渡来したとする説が有力だからである。

 前記のように、上田正昭氏も、「秦氏は新羅系と考えるべきである。」と言っておられる。そうだとすれば、「ヒメコソ」の祭神の姫神は「新羅の王子の天之日矛」の妻だから、「秦」も「ヒメコソ」も新羅に関わる点で符号が合う。故に、総社市秦に鎮座する姫社神社は、新羅から吉備に渡来し定着した秦氏の氏神であった可能性が非常に大きいと言えよう。

(追記)姫社神社の管理祭祀を続けておられるのは、石畳神社と同じく、総社市秦の小橋光一宮司である。

六、正木山
 『史記封禅書』 の中に「天子は、天下の名山大川を祭る。」・「諸候は、その彊内の名山大川を祭る。」などの記事が見えていること、および、こうした宗教思想は日本列島に影響を与』 えたと思われることなどは、前に述べた。そして、この中の「川の祭祀」については、石畳神社の項で述べた。

 では、古代吉備の地(今の総社市奏の一帯)に住んでいた秦氏は、「山の祭祀」も行っていたのであろうか。『封禅書』 には「名山大川を祭る」とあるから、祭祀の対象となったのは「名山」、即ち、聖なる山であったはずである。山城の嵯峨に定着した秦氏の氏神は松尾神社だが、この神社が背後の松尾山を神体山とするものであることは広く知られている。
 つまり、山城の秦氏は聖なる山を祭っていたということである。

 では、備中の秦氏が祭っていた聖なる山はどこにあるのだろうか。
 結論から言えば、それは正木山だと思える。正木山の所在地は、『和名抄』にいう「備中国下道郡秦原郷」に当たる。

 ということは、正木山は、これまでに述べた秦原廃寺・湛井堰・石畳神社・姫社神社などと同一郷内にあったことになる。高さは三八一メートル、付近の山々の中では最も高く、山容も優れ、山頂からは南に遠く瀬戸内海を眺望することもできる(略地図参照)。

Pasted Graphic 36
 南方から見た正木山。堂々 とした山容である。手前は高梁川の川原。山頂には奥つ
 イワクラがある。右の手前に見えるー段低い山の頂きの建物が厚生年金休暇センター
 で、そこにかつて八幡宮があったが、それが式内社麻佐岐神社と推測される。

 正木山が聖なる山として崇められていたと思われる根拠の一つは、この山が大嘗会和歌の題材とされていることである(前記の大岩徳二氏の著『おかやまの和歌』による。説明も同氏)。

○「正木山まさきのかづら紅葉して時雨も時をたがへざりけり」

 建久九年(一一九八)の大嘗会に際しての歌。藤原資実(すけざね)の作。この人は鎌倉初期の歌人で、『新古今和歌集』 をはじめとする多くの勅撰集にもその名が見える。

○「時雨れつる正木の山のそがひより紅葉の色のてこらさ」

 歌中に見える「そがひ」は「背向」で後方の意。「てこらさ」は照り映えて美しく愛らしいさま。正応(元年は一二八九)年間の大嘗会に際しての歌で、藤原隆博(たかひろ)の作。この人は鎌倉時代の歌人で、多くの勅撰集にその歌が載せられている。

 前者は「建久九年」の歌だが、鎌倉幕府が開かれたのが建久三年(一一九二)であるから、正木山の名は既に鎌倉初期には平安京の貴族に知られていたことが分かる。一地方の一山の名が都の人に知られていたということは、珍しいことである。しかも、大嘗会を祝うめでたい歌の題材として選ばれていることは、正木山が聖なる山であった証拠と言えよう。

 正木山が聖なる山と思える根拠の二つめは、『延喜式』神名帳に、「備中国下道郡麻佐岐神社」と見えていることである。

 「正木」と「麻佐岐」は字が違うが、前記のように、今の正木山の辺りは『和名抄』 にいう「備中国下道郡」だから、「正木山」の所在する郡名は神名帳にいう「麻佐岐神社」の鎮座する郡名と一致している。その上、「秦原」の郷名は「秦」という大字名として今も残っているが、正木山は大字秦に所在しているので、式内社の麻佐岐神社は正木山に関わる神社、換言すれば、麻佐岐神社は正木山を拝む神社であったとして間違いない。したがって、正木山が『延喜式』 制定の頃には既に聖なる山として崇められていたことは確かだと言えよう。

 では、式内社麻佐岐神社はどこにあったのだろうか。私たちは、「神社」という言葉を耳にする時、ともすれば社殿を頭に描いてしまうが、古代の神社には社殿はなかった。例えば、大和国の一宮は大神(おおみわ)神社だが、ここには本殿はない。拝殿はあるが、それも江戸時代に設けられたもののようで、古い時期の大神神社にあっては社殿は何一つなかったということである。三輪山という山そのものを御神体としているので、社殿は不要なわけである。これと同じく、式内社に定められた当時の麻佐岐神社には社殿はない、正木山という聖なる山そのものが御神体とされていたものと思われる。

 問題は、正木山を麓のどこから拝んでいたのかという点である。三輪山の場合は、今の大神神社の拝殿の背後に岩(イワクラ)があるが、そこが三輪山の遥拝所であった。こうした山麓のイワクラは「辺つイワクラ」と呼ばれている。そして、三輸山では山頂にも中腹にもイワクラがあり、山頂のは「奥つイワクラ」、中腹のは「中つイワクラ」と言う。

 ところで、正木山の山頂にはイワクラと考えて先ず間違いない岩がある。このことは大方の研究者も認めているところである。その岩は玉垣で囲んであり、岩の前面に拝殿が設けられている。この岩は正木山の「奥つイワクラ」として間違いないが、問題は麓の遥拝所(辺(へ)つイワクラ)がどこかという点である。なぜならば、そこが式内社麻佐岐神社だからである。今日、正木山へ登る道はいくっかあるが、古い参道が高梁川の方(東)から、つまり、大字秦(はだ)から山頂に向かっていることは興味をひく。つまり、登り口が大字秦だということである。麓(その場所は後記)からこの参道を登ると、頂き近くで石畳道が約一〇〇メートル続くが、間もなく鳥居があり、それをくぐると社殿があるが、これは拝殿で、そのすぐ真後ろに前記のイフクラ(奥つイワクラ)がある。拝殿だけで本殿がなく、拝殿の背後にイワクラがあるのは古代の神社の姿を伝えているものである。

 さて、麓からの参道。石畳道・鳥居・拝殿・イワクラは、ほぼ一直線上にある。ということは、この参道こそが正木山に登る正式の参道であったとして間違いない。間題は、この参道の登り口が、大字秦のどこかという点である。なぜ、そこが大切かと言えば、その付近に、正木山の遥拝所(辺津宮、辺つイワクラ)、換言すれば式内社麻佐岐神社があったはずだからである。結論から言えば、その最有力候補は、今の岡山厚生年金休暇センター(以下、休暇センター)の建っている場所である(略地図参照)。

 今日、正木山山頂の奥つイラクラの管理祭祀を続けておられるのは、石畳神社・姫社神社と同じく、総社市秦の小橋光一宮司だが、宮司さんのお話によると、約二〇年前には、休暇センターの場所に八幡宮(この神社の宮司も小橋氏)が鎮座していたが、休暇センターを建てる時、麓に遷されたとのことである。更に、八幡宮に接して古くは神宮寺もあった。

 この八幡宮の旧社地からは、正木山の山頂がはっきり見えるし、ここから尾根道を約一時間行くと山頂に達する。宮司さんも、この道を何度も登られたそうである。つまり、八幡宮の旧社地は正木山への正式参道の登り口に当たるわけである。
 加えるに、この八幡宮の旧社地は、尾根の端に位置していて、ここからの眺望は実に素晴らしいものがある。眼下に高梁川が流れ、南には秀麓な姿をした福山などもよく見える。つまり、西には正木山の頂きを望むことができるが、背後をふりかえれば、東・南には二四〇度のパノラマが開けているということである。

 休暇センター建設工事から二〇年を経た今日、残念ながら、そこに「辺つイワクラ」に当たる岩があったかどうかは不明だが、『延喜式』 にいう「麻佐岐神社」の鎮座地はこの八幡宮の旧社地であったと、私は確信している。

 以上から、式内社「麻佐岐神社」は、「備中国下道郡秦原郷」に住んでいた秦氏が聖なる正木山を御神体として祭っていた神社とすることができると言えよう。

Pasted Graphic 37
正木山頂きのイワクラ。背後方向から写したもので左手の社殿は拝殿。今も本殿はない。

付記H古墳、および三角縁神獣鏡
 総社市秦には、かなりの数の古墳が知られているが、前記の厚生年金休暇センター(八幡宮の旧社地)のすぐ下方に、最古級(或いは最古)の前方後円墳ではないかと思える古墳(以下、秦にあるのでH古墳)がある。ここは小橋宮司さんの所有地である。H古墳からの眺望は、休暇センターからの眺望(前記)と同じで、実に素晴らしいものである。盗掘されていないようだが、発掘調査も未だ行われていない。

 私が、H古墳に興味をひかれるのは、いくつかの点で、総社市三輪の宮山古墳に非常によく似ているからである。宮山古墳は「宮山形特殊器台」の名で著名な最古級の前方後円墳であるが、似ているのは次の四点である。

(1)墳丘の大きさが同じくらいである点。
(2)前方部が非常に低い感じを受ける点。
(3)山の尾根上に築かれていて、平地からの高さも似ている点。
(4)墳丘上付近からの眺望が実に素晴らしい点。

 なお、H古墳から見ると、高梁川を挟んで南方に宮山古墳が見える(略地図参照)。まるで、川を中にして相対しているかのようである。
 言うまでもなく、前方後円墳が「いつ」「どこ」で造られ始めたのかを明らかにすることは、考古学の一大課題である。

 それは、換言すれば、最古の前方後円墳は、果して、吉備にあるのか、それとも大和にあるのかということでもあると、私は考えている。

 吉備における最古の前方後円墳の候補としては、前記の宮山古墳と吉備の中山の一尾根上にある矢藤治山古墳の二者が挙げられる。両者を発掘調査された近藤義郎氏は、宮山古墳・矢藤治山古墳の築造時期は極めて古いとされながらも、大和の箸墓古墳の築造時期よりも古いとは言い切れないと考えておられるようである。どちらが占いかは非常に微妙と言えるが、今話している秦のH古墳も、そうした候補の仲間入りができる古墳ではないかと考えられる。私は、H古墳が調査されることを待望しているわけである。

 ところで、H古墳のすぐ近くの古墳(秦上沼古墳・略地図参照)から、国重文の三角縁神獣鏡(天王日月銘四神四獣鏡)が出ている。この鏡は京都府椿井大塚山古墳出土の三角縁神獣鏡の中の一面と同型であると言われている。もしもH古墳が私の推測通り最古の前方後円墳とすれば、三角縁神獣鏡の出た秦上沼古墳は、これに続く時期の古墳ということになる。

 以上の両古墳の築造時期を仮に三〇〇年前後とすれば、「御友別」が「葉田」に住んでいたのは三八〇年頃、秦原廃寺の創建は六〇〇年頃であるから、三者の間にはかなりの隔たりがあるが、三者がいずれも「備中国の秦の地」という限定された地域に関わっている点は興味をひく。両古墳と秦氏との関係は不明というほかないが、これら古墳の存在は、秦の地が非常に古くから開けていたことを証明する有力な材料には違いない。

Pasted Graphic 38
総社市秦の上沼古墳から出た三角縁神獣鏡。「天王日月」の銘がある。国重文。

(追記)式内社「麻佐岐神社」(後の八幡宮。今は厚生年金休暇センター)・H古墳・秦上沼古墳の三者は、同所と言ってよい程、近接している。
(追記)三角縁神獣鏡は小橋宮司さんが大事に保管しておられる。

(古代思想研究家)

inserted by FC2 system