⑥賀夜郡

⑥賀夜郡

備中国における渡来人の土着
「岡山県通史(地名考)」より  薬師寺 慎一 編

⑥賀夜郡 「賀夜(カヤ)」の起源。任那の古名「伽耶(かや)」。伽羅に通じる。
 「カヤ」の表記。----加夜・賀夜・賀陽・香屋・加耶・伽耶・蚊屋・蚊家。加耶*・安羅・多羅・加羅*も任那の内。
 大和は事実上「漢人の国」。山城は事実上「秦の国」。備中は事実上「カヤ人の国」。

①カヤ人の渡来コースは、韓半島-出雲-高梁川-備中。
②その渡来の始めは、崇神天皇の時。崇神天皇は、吉備に根拠を置き、大和を平定。
③カヤ人の土着は、崇神に始まり、応神・仁徳に全盛を極め、奈良・平安に及んだ。
④中心は「賀夜郡」。
⑤更に、秦・漢・呉からの渡来人も重なる。
⑥正倉院文書によれば、「賀夜郡」一帯の住民の大半は帰化人の子孫なり。

○庭妹郷 (今、庭瀬町の平野・延友・東花尻・西花尻・庭瀬・川入の六大字を含む)
 和名抄 「賀夜郡庭妹郷」
 正倉院文書 ★「庭瀬郷三宅里。戸主、忍海漢部真麿。」
★「庭瀬郷山崎里。戸、忍海漢部得島。口、忍海漢部麻呂。」

○板倉郷 (今。真金村)
 和名抄 「賀夜郡板倉郷」
 正倉院文書 ★「板倉郷板倉里。戸主、鳥取部伎美麿。口、山守部島売。」
★「板倉郷委文塁。戸、中臣忌寸連鯨、、口、中臣忌寸連荒鹿火。」

○生石郷 (今、生石村)
 和名抄 「賀夜郡生石郷」。訓は於保之(オホシ)。

○足守郷 (今、足守町)
 和名抄 「賀夜郡足守郷」
 正倉院文書 ★「葦守郷三井里。戸、弓削部連田道。」
★「葦守郷三井里。戸主、物部大海。口、出雲部羊売。」
★「葦守郷楢見里。戸主、建部臣大山。口、建部臣恵師売。」
★「葦守郷楢見里。戸、出雲部小磨。」
★「葦守郷楢見里。戸主、建部千先。口、建部気津売。建部智麻売。」

 八幡宮の東南に☆「三井谷」あり。冠山の南麓の三仙寺は☆「三井山三泉寺」という。
 されば、この一帯が三井里か。秦の冠(カムリ)は姓(かばね)か。「姓氏録山城諸蕃」に「秦の冠」あり。
☆八幡宮の石烏居の辺りを☆「冠(かもり)」と呼ぶ。また、☆「冠山」あり。応神紀に「葉田の葦守宮」あり。されば、葉田の冠、秦の冠の土着せるところか。
 「三井里」は、今の足守に当たる。「楢見里」は、今の高松町生石村に当たる。
 応神紀にいう「葉田」とは、どこか。東は上道郡可知村大多羅、財田村土田を限り、西は高梁川を越えて、秦原より新本に至る一帯か。東は「古津」を、西はカヤ津(津寺)を門戸とす。

〇大井郷 (大井・日近・岩田・福谷の各村を含む)
 和名抄 「賀夜郡大井郷」
 正倉院文書 ★「大井郷。田後里。戸、生部首加都良。」
★「大井郷。粟井里。戸、東漢人部刀良手。」

 「大井」の名は、「葉田」の☆「大堰」より起こるか。古市場の上方鍛冶山下の堰にして、古市場の後方山麓の用水路を通じて、上足守・下足守・上下土田の田に灌概す。

○阿宗郷 (今、阿曾村)
 和名抄 「賀夜郡阿宗郷」
 正倉院文書 ★「阿蘇郷宗部里。戸、西漢人部麿。戸、羅曳連豊島。」
★「阿蘇郷磐原里。戸主、史戸阿遅麻佐。口、漢人部事无売。」

 「宗部」は「阿宗部」の略にして、今の阿曾村・服部村、および、生石の一部を含む。「和名抄」の頃、服部郷か独立したものと思える。
 「阿蘇」は「日本書紀」に見える「二十伽羅」の一つで「阿羅蘇」の略なり。「アラ」は「大」、「ソ」は「金」を意味す。

○服部郷 (今、服部村)
 和名抄 「賀夜郡服部郷」

 服部村に大字「長良」あり。これは「大加羅」・「阿那加良(アナカラ)」の略。
 服部郷図、永仁六年改製、図に見える「古郡(ふるこおり)」は、賀夜郡の郡家の地にして、賀夜国造の屋敷なり。後に、国府(御所)となる。古郡神社は宮山にあり。服部郷は賀夜国の中心なり。

○八部郷 (今、総社町)
 和名抄 「賀夜郡八部郷」。「やたべ」。
 正倉院文書 ★「八部郷美濃里。戸主、賀陽臣恵理麿。口、賀陽臣路。」

 「八部」は「八田部」なり。

○刑部郷 (総社町に刑部あり。もと福井・小寺・門田をふくむか)
 和名抄 「賀夜郡刑部郷」。「オサカベ」。

○日羽郷 (今、日美村大字日羽あり。池田・日美・富山・大和の四村と総社町大字井尻野を含む)
 和名抄 「賀夜郡日羽郷」
 正倉院文書 ★「日羽郷宍栗里。戸主、川入部麿。口、川入部大伴。」
★「日羽郷宍栗里。戸、部小足。」
★「日羽郷狭野里。戸主、賀陽臣小牧。口、白髪部臣真虫売。」

 「川入部」は河川にて魚を取る。
 「狭野里」の「狭野一は、総社町井尻野に「佐野山」あり。「狭野」は狭隆なる野の意なれぱ、今の横谷見延(みのべ)に当たるか。「見延」は「美濃部」なるべし。
 「狭野里の戸主、賀陽臣小牧」は、「八部郷美濃里の戸主、賀陽臣恵理麿。口、賀陽臣路。」と何らかの関係あるべし。果してしからば、「狭野里の賀陽臣」は「美濃里の賀陽臣」の部曲を有し、「狭野里」に美濃部、即ち「見延」の地名をのこすに至れるにはあらずか。
 「姓氏録、摂津・諸蕃」に「三野造、出自百済国人…」とあり。されば「八部郷美濃里」・「日羽郷狭野里」における「美濃部」は帰化族なるか。

○多気郷 (多気荘など。津高郡宇甘川の上流の地)
 和名抄 「賀夜郡多気郷」
 正倉院文書 ★「多気郷物部里。戸主、物部得安。口、物部阿曇。」
★「多気郷田次里。戸主、犬甘部首土方。口、山守部身足。」

 「田次里」は、今、「田土村」あり。
○有漢郷 (今、有漢村、および、上有漢村)
 和名抄 「賀夜郡有漢郷」。訓は宇萬。高山本は宇賀邇。

 後世は「ウカン」という、だが、「宇賀邇(ウガニ)」が正しい。簡明に言えば、「有漢」は鵜養部に起こる。
 「鵜飼(ウカヒ)」・「鵜養(ウカヒ)」・「鵜甘(うカヒ)・(ウカン)」。「宇甘(ウカン)」・「有漢(ウカン)」なり。
 吉備三国の河川、古来、鮎をもって著はれ、鵜養部が置かれた。旭川の中流、宇甘川の合流するところ「宇甘(ウカン)」あり。
 葦田川の中流、府中線の駅名に「鵜飼」の名あり。高梁川と巨勢川(有漢川)と合流するところに、鵜養部が置かれ、今、その地に有漢の地名を留める。

○巨勢郷 (巨勢村あり。高梁の一帯に巨勢庄)
 和名抄 「賀夜郡巨勢郷」

 「巨勢」は、もとは「古瀬」。

○大石郷 (今、上有漢村宇垣に大石の名あり)
 和名抄 「賀夜郡大石郷」


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