古代日本における冬至の日の出線(その2)

古代日本における冬至の日の出線(その2)
『東アジアの古代文化』(第78号'94年冬 )大和書房
(はじめに)
① 下鴨神社と大文字山
② 伊勢の斎宮と朝熊山
③ 大野寺の土塔と葛城山
④ 難波宮と高安山
⑤ 大隅宮と生駒山
⑥ 住吉大社と二上山
⑦ 御澄池と宇佐の御許山
⑧ 蚕の社と醍醐山
⑨ 法隆寺と巻向山
⑩ 堅田の浮見堂と御上山
⑪ 高野神社と美作の神奈備山
⑫ 加茂の庚申山と吉備の中山


(はじめに)
 古代にあっては、洋の東西を問わず、月日(暦)を人々に教えることは支配者の重要な役目であり、その資格でもあった。聖(ひじり)「日知り」だという人もいる。中国でも日本でも、暦は支配者(政府・朝廷)が発行した。古代にあっては、或る国の暦を用いることは、その国の支配に属しているという意味すら持っていたのである。ヒミコが銃王朝の暦を用いていた可能性も考えられる。

 こうしたわけで、日本列島各地の支配者にとっても月日を知ることは重要であったが、それに関連して、一年の始まりとされた冬至にはとりわけ深い関心を持っていたはずである。加えて冬至は太陽復活の日だから、太陽と関係の深い農耕生活にとっては特に大切な日である。おそらくは農耕が生活の主となった弥生時代における各地の支配者たちは、既に何らかの方法で冬至の日を知ると同時に、太陽復活を願って冬至の日の出を拝んでいたに違いない。中国では、秦の始皇帝・前漢の武帝などが冬至に天神を祭っていたことは、既に述べたが、この時期が日本では弥生時代である。ヒミコの頃は、弥生時代の後期である。

 では、列島各地の支配者たちは、何によって冬至の日を知ったのか。その重要な手掛かりの一つは、太陽が神体山のどこから昇るかということであったと考えられる。聖なる山(神体山)を中心に据えて古代史を考えようとする筆者は、各地におけるいくつかの聖なる山に登り、この山を基準に三十度の線(冬至の日の出線の逆)を求め、その線上にある神社などを訪れてみた。これは、神社を本にして冬至の日の出線上にある山を探すのと同じ結果になるが、聖なる山と神社の何れを中心に据えるかという点では根本的な違いがある。

 以下に、調査の結果を掲げる。但し、紙数の関係もあり、主なもの(有名な山)に限ることにしたい。
 なお、お断りしておきたいことが二つある。

 一つは、例えばある著名な山と今一つ別の著名な山とがたとえ三十度になっていても、筆者はこれには意味を認めないことである。理由は、両者とも自然のものだからである。換言すれば、それは偶然ということである。

 筆者が意味を認めるのは次の場合である。

 或る聖なる山があり、その山に昇る冬至の太陽を拝むことのできる位置に神社とか寺院などがある場合である。いうなれば、片方が人工的なもの(神社とか寺院)でなければならないわけである。

 くどいようだが、これは偶然ではなく、そうした位置に目的を持ってその神社とか寺院を設けたことを意味しているからである。
 ただし、神社・寺院の位置する場所が高い山上などでなく、丘(或いは丘に準ずる程度の小山)上などの場合は、とりわけ、その丘の付近に他にも似たような多くの丘が存在している場合などは、筆者の容認範囲である。なぜならば、そこには、多くの丘の中から特定の丘を選んだという人の意識が存在しているからである。なお、或る小島などに設けられた神社の場合も、丘と同じである。

 今一つ、筆者にとっては、その山が実際に目に見えない場合も意味がない。例えば、地図上で或る地点から北へ北へ(あるいは東へ東へなど)と線を引いて二つ以上のものを結び付け、それらが互いに深い関係にあると論ずるようなことに筆者は興味を持たない。

①下鴨神社と大文字山
 京都の下鴨神社は、説明不要の名高い神社である。

★ 下鴨神社からは大文字山が冬至の日の出線に当たる。

 筆者は大文字山(「大」の文字の所)に登ってみたが、京都の町全体が実に椅麗に見渡せた。勿論、下鴨神社の鎮座している杜(もり)もよく見えた。ということは、その逆も言えるわけである。ついでに言えば、冬至の日の出線と並んで重要なのは真東の日の出線(春分・秋分の日の出線)だが、平安京の大極殿の真東が大文字山である。大極殿は内裏の中で最も重要な祭祀に関する建物であるから、平安京が大文字山を強く意識して造営された可能性は極めて大きい。

 大文字山は京都盆地における神体山だと考えてよい。この山は、「大」の字の火が燃えるようになって以後に崇められるようになったのでなく、それ以前から聖なる山であったが故に、後世に「大」の字が作られたと考えるのが妥当である。
 平城京における聖なる山は春日山だが、これに相当するのが平安京では大文字山だということになる。

 なお、下鴨神社からの夏至の日の出線(真東から北へ三十度の線)は比叡山に行く。夏至の日の出を知ることも大切であった。また、下鴨神社からの春分・秋分の日の出線(真東)は瓜生山に行く。大文字山・比叡山・瓜生山は何れも聖なる山である。まとめて言えば、これら三山からの日の出を拝むことのできる下鴨神社の鎮座している地点は、古代では非常に大切な所であったことになる。支配者は、そうした所に住み、日の出や日入りを観測し(或いは配下の専門家に観測させて)、人々に月日を教えたのである。なぜ、下鴨神社が今の位置に鎮座したかは、こうした観点からも研究してみる必要がある。

 この神社は、比叡山に近い御陰(みかげ)山と深いつながりを持っていて、今も御蔭祭は特に重要な年中行事である。御蔭祭の始まりは奈良時代のこととされているようだが、この頃に御蔭山の神が下鴨神社に迎えられたものであろう。だが、問題は、その他の場所にではなぐ、なぜ今の神社の鎮座地に迎えたかである。この地に有力者が住んでいたかどうかという観点、この地が賀茂川と高野川の合流点に当たるという観点などから考えるのも一法だが、冬至の日の出線という観点から考えてみることも大切ではなかろうか。、この地は、既に御蔭山の神を迎えた奈良時代よりもずっと以前から、大文字山に昇る冬至の太陽を祭る聖地であり、そうした聖地であったればこそ、両河川の合流する地にいた支配者が、そこに御蔭山の神を迎えたものと推測できる。

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②伊勢の斎宮と朝熊山
 斎宮は、伊勢神宮に奉仕した斎王(未婚の内親王または女王)が居住した宮殿と、その事務を取り扱う斎宮寮という役所を含んだものを指す。毎日グラフ別冊「古代史を歩く・10」には、次の記事が載せられている(要旨)。「斎宮跡は約一四○ヘクタールの広大な史跡。標高約一○メートルの洪積台地にある。発掘調査の範囲は一二へクタールで、一三○二棟の建物が見つかった。このうち奈良時代が四○四棟、平安時代が八五二棟、鎌倉時代以降が三○棟である。掘立柱建物に限られ、基壇を持つ礎石建の建物は皆無で、瓦も一○数点しか見つかっていない。

 遺物のうちで最も多いのは土師器。祭祀に使用された膨大な土師器が、再使用されることなく廃棄され続けた斎宮の特異性を物語る。云々 。」と。

★ 斎宮跡からは、朝熊山(あさまやま)が冬至の日の出線上にある。

 斎宮の地は、おそらくは既に弥生時代には、冬至の日に朝熊山に昇る太陽を拝むための聖地であったと考えてよい。何度もいうように、権力関係の祭祀は、以前に何もなかった所には入ってこない。この地は、朝廷が斎宮を設ける以前から、朝熊山に昇る冬至の日の出を拝む聖地であり、その故にこそ、そこに斎宮が設けられたと考えられる。

 朝熊山は、「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参宮」とうたわれ、神宮の奥の院と言われた山であり、伊勢内宮の神体山である。
 聖なる山が仏教上の霊山となる例は多いが、弘法大師は朝熊山の頂に金剛証寺を建てられた。しかも、この寺で最重視されている明星堂に祀られている雨宝童子(重文)は、大師が内宮に祭る天照大神の姿を感得して彫ったものと伝えられている。

 加えて、この山上で発見された経塚群は世上とみに名高いが、経塚もまた霊山に造られる。特に注意すべきは、出土した経筒の中に、「承安三年」(一一七三に「伊勢大神宮権祢宜正四位下荒木田神主時盛」と「渡会宗常」が「現世後生安穏太平」を願って納めたという銘の入った経筒があることである。即ち、伊勢神宮を預かる神主が朝熊山に「現世後生安穏太平」を願って経を納めているのである。朝熊山が如何に霊山であったか、如何に神宮と深い関係があったかが察せられるのである。本筋に戻るが、ここで注意しなければならぬ点は、「朝熊山は内宮の奥の院だから大切な山なのだ」と考えてはならないことである。そうした考え方は本末転倒である。いくら伊勢神宮の歴史が古いといっても、朝熊山の方が古いことは言う迄もない。山はずっと前からそこにあった。

 即ち、この山が聖なる山であったから、この山の麓に内宮が設けられたのである。筆者が、一地域の古代を考える際には神体山を中心に据える所以である。この地域に住んだ古代の人たちは、内宮が設けられる以前から、朝熊山を神体山として崇めながら、この山を中心にして生活を営んでいたのである。

 朝熊山に登ってみたが、果たして頂上にはイワクラがあった。その岩は、建築工事のためか、かなり破損されていたが、岩上に立って東方を眺めると、伊勢海上に神島(かみじま)を、更に、その向こうに伊良湖崎(いらこざき)を望むことができた。神島に鎮座する八代(やしろ)神社に秘蔵されている神宝(古鏡・三彩など)は、この島における古代祭祀に関わるものだという研究者は多い。ところが、神島から冬至の日入りの線を求めると、朝熊山に当たる。神島が聖なる島となったのは朝熊山との関係に因ると、筆者は考えている。また、日の出・日入りには関係ないが、二見から見ると真南が朝熊山である。二見の地もまた、倭姫、および神宮に関わる古代以来の聖地である。

 このように見てくると、朝熊山は正に伊勢地域の神体山であると言える。その故に、この山を抜きにしては、この地域の古代史を考えることはできない。
 なぜ斎宮がそこに設けられたかを考えるには、朝熊山との位置・方位関係で考えるのが至当となる。

 吉野裕子氏は、多少のズレはあるとしながらも、内宮とその西北にある外宮を結んだ線の延長線上に斎宮が位置するとした上で、西北は乾(いぬい)であって天・太陽・円・車を象徴するとして、自論を展開されている(「隠された神々」)。

 だが、これは内宮を中心に据えた上での論である。内宮は一つの建物である。筆者は、朝熊山を中心に据えて考える。「内宮と斎宮の方位関係」という視点に立つよりも、「朝熊山と斎宮の方位関係」という視点に立つ方が妥当であると確信している。
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       堺市土塔町にある大野寺の土塔

③大野寺の土塔と葛城山
 土塔は、あまり知られていないが、大阪府堺市土塔町にあり、大野寺の土塔と呼ばれている。神亀四年に行基僧正が造営された塔で、名の如く土を盛って造られていて、最も古い形式の塔といわれる。最下層の土壇の一辺が約六十米で、高さは約八米の方錐形(ピラミッド形)の丘の如きもので、言わば南方的な塔である。

 もとの姿についての定説はないが、「行基菩薩行状絵伝」や現状などから推して、十三層になっていたようである。一説では、一層毎に瓦が葺かれていたともいう。実際、かなりの数の瓦が出土している。その中には人名を彫った瓦も出ている。

 筆者も訪れてみたが、なかなか大きなもので、一見方墳かと思える程であった。原形が十三層であったという各壇の名残も僅かながら窺い得た。いずれにしても、ありし日の土塔の姿を想像してみれば、実に堂々 とした立派な塔だと言える。また、土塔の所在する土塔町の中心部が、周辺の地より少し高い台地上にあることも確かめられた。

★ 土塔からは、冬至の日の出線上に葛城山が見える。

 葛城山も無論聖なる山だが、上塔から真東を望めば二上山が見える。真東も重要な方位である。しかも、両山とも、はっきり見ることができた。

 葛城山も二上山も、古代史で問題にする時は大和の側から見ての場合が多い。だが、これらの山が西側の大阪湾沿岸地域に住んでいた人たちにとっても聖なる山であったことに変わりはあるまい。

 行基僧正ほどの人である。何の意味もない場所に土塔を造ったはずはない。
僧正が生まれたという家原(えばら)寺には前記の「行基菩薩行状絵伝」が伝えられているが、この寺は土塔に近いから、その地が昔からの太陽を拝む聖地であることを僧正は子供の時から知っていたはずである。即ち、僧正が土塔を造ってからそこが重要な場所になったのでなく、そこが以前からの聖地であった故に、僧正はそこに土塔を造ったものと考えられる。行基僧正は、土塔において、冬至には葛城山に、春分や秋分には二上山に昇る太陽を拝んだものと推測される。

④難波宮と高安山
 難波宮跡は大阪市にある。大化改新の後に孝徳天皇が造営した難波長柄豊崎宮が起こりと言われるが、ほぼ同じ場所に天武天皇および聖武天皇が、それぞれ難波宮を設けたと推測されている。更に、大きく見れば同じ地に、中世には石山本願寺、近世には大阪城が位置した。このように、この地には各時代を通して、次々 に重要な建物が造られだのである。

 では、それは何故か。その理由を考える時、筆者は、この地が上町台地の北端部を占めていて、地形上・交通上の利点を持っているからという一般に行われている説明だけでは不十分のように思う。では、どう考えればよいか。

★難波宮からの冬至の日の出線は高安山(日本書紀に山城が築かれたと記されている)に行き着く。

 また、難波宮の真東は生駒山である。いうまでもなく高安山も生駒山も共に古くからの聖なる山である。即ち、この地は、難波宮の造られる以前から、おそらくは既に弥生時代には、ここに本拠を置いた首長が高安山・生駒山に昇る太陽を拝んでいた聖地であったと考えられる。政治上の要地が宗教上の聖地と重なる例は、国内は勿論、世界的に見ても多い。

 発掘調査の結果、難波宮には、前期難波宮と後期難波宮が存在したことが明らかになったが、その中の前期難波宮跡では、他の諸宮には例を見ない八角堂の存在が確認されている。
 八角という形は方位思想に深く関わるものである。平安京が大文字山を意識して造営されたように、難波宮は生駒山・高安山を強く意識して造営されたものとしてよい。

(備考)生駒山に関しては、次項「大隅宮と生駒山」を参照されたい。

⑤大隅宮と生駒山
 大隅宮は、淀川流域(大阪市東淀川区)にあった応神天皇の宮である。

 日本書紀の応神天皇二十二年三月条に、次の如く見えている。
 「天皇、難波に幸して、大隅宮に居ます。(中略)高台に登りまして遠に望す。」と。

 同じく、四十一年二月条に、次の如く見えている。
 「一に云はく、大隅宮に崩りましぬといふ。」と。

 同じく、安閑天皇二年九月条に、次の如く見えている。
 「難波大隅島」と。

 現地を訪れてみたが、今は家が立ち並んでいる中に、大隅神社が鎮座している。所在地は、大阪市東淀川区大桐五丁目十四番八一号で、応神天皇を主神としている。

 神社発行の略誌によれば、「社地はもとの大隅島、即ち、上中島に当たる。」としているが、また、「本社所蔵の旧図(明治七年作製)を見ると、今の大阪経済大学の辺にあった小丘が大隅宮址かとも思われる。云々 。」とも記している。

 何れにしても、前記のように「難波大隅島」とあるから、古くはこの辺りは大隅島という微高地的な島であったに」違いない。

★大隅宮からは、生駒山が冬至の日の出線上にある。

 難波宮と同様、政治的要地と宗教的聖地の重なった例と言えよう。訪れてみると、生駒山の頂きにもイワクラがあった。今言っているのは、聖天さんで名高い宝山寺のことではない。宝山寺は中腹にあり、山頂ではない。さて、山頂一帯には戦後に造られた大規模な遊園地があるが、その一角に白水山龍光院(八大龍王)という名の寺がある。だが、ここには鳥居も立っているから、寺と言っても神仏習合であり、神社があるのと同じと考えてよい。

 ところが、この寺では岩を御本尊として祀っている。その岩の前に拝殿に相当する建物はあるのだが、本堂(本殿)に当たる建物が無い。岩(イワクラ)そのものを御本尊(御神体)として崇めているのであり、言うまでもなく古い形の信仰である。筆者は、この岩が生駒山の山頂のイワクラだと確信している。

 なお、境内には、この寺の山号「白水」の起こりとなった霊水も湧いていて、弘法の井と呼ばれているが、霊水の存在もまた古い信仰を物語っている。

 生駒山の西麓にある石切神社から登る道を辻子越え(または大戸越え)と言うが、この道の行き着くところが山頂の白水山龍光院(八大龍王)である。そして、そこにイワクラと霊水がある。大阪平野に住んでいたずっと古い時代の人たちが神体山として崇めていた生駒山の本当の姿をここに窺うことができるのである。
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⑥住吉大社と二上山
 大阪市に鎮座する著名な神社。

★ 住吉大社からの冬至の日の出線は二上山に当たる。

 また、真東は高安山である。二上山も高安山も聖山である。
 住吉神社がなぜここに鎮座したかは、海との関係からだけではなく、こうした面からも考えてみねばなるまい。即ち、何度も述べたように、住吉大社が創建される以前から、ここは太陽を拝むための聖地であり、有力者の本拠であったということである。

⑦御澄池と宇佐の御許山
 大阪市東淀川区に鎮座する大隅神社

日本書紀にいう応神天皇の大隅宮の跡と伝えられる。古代は「大隅島」という微高地的な島であったらしい。

 御澄(みすみ)池は、大分県中津市大字大貞にあり、三角池とも書く。

 この池と宇佐宮とは、極めて深い関係がある。その関係というのは、次の二点である。第一点めは、古は宇佐宮の御神体の薦(こも)枕を作る時は、必ずこの池の薦を刈り取って用いたことである。したがって、この池は薦池とも呼ばれた。今も薦神社が鎮座し、池をご神体として祭っている。

 さて、新しくでき上がった御枕を古い御枕と取り替える神事が行幸会(ぎょうこうえ)であり、この神事は放生会と並んで、宇佐宮における最大の特殊神事であった。ということは、この池は宇佐宮と極めて関係が深いということになる。更に言えば、御澄池の所在地が宇佐宮の根源に関わる地であるということにもなる。

 別府大学の伊藤勇人氏も「薦社覚書」の中で、「八幡神が官社八幡宮へと発展した契機は養老四年の隼人の平定にあったが、その時、御澄池に生えている薦で作った枕を神験として神輿に奉じ、日向・大隅へと出向いたことを考えれば、八幡信仰の起点が御澄池にあることは否定しがたい事実といわねばならない。」と言っておられる。

 筆者も訪れてみたが、なかなか大きな池で、池の辺に薦神社(別名大貞八幡宮)が鎮座している。補宜の池永孝生氏(古くからの社家)のお話によると、「薦神社は御澄池そのものをお祀りしたものです」とのことである。実際、池の岸に立つ鳥居には「内宮」の額が掲げられており、この鳥居を通して池を拝むようになっている。そして、鳥居正面に島が見えるが、その島の周辺に生える薦で宇佐宮の御神体を作ったのである。今も薦が生えている。御澄池が宇佐宮と深い関係があるとする第二点めは、古はこの池を記る薦神社の宮司が宇佐宮の大宮司になっていたことである。

 薦神社発行「真薦第一号」の中に、要旨次の如き内容の記事が見える。

 『御薦社司相続系図』 (薦神社代々の宮司名が記されている)の最初に『公池守』 という人物がいるが、注意すべき点は、この人名の横に『宇佐大宮司』 と記されていることである。即ち、『池守』 という人は、薦神社の初代の宮司だが、同時に宇佐宮の大宮司、それも、宇佐姓で初代の宇佐大宮司に任じられた人であったらしい。加えるに、この人が御澄池にいたという伝承は『八幡宇佐宮御託宣集』などに散見される。云々 。」と。更に、「御薦社司相続系図」を見ていくと、「池守」の次の宮司「弐佐」の横には「宇佐権大宮司」、次の「文世」の横にも「宇佐権大宮司」、次の「佐雄」の横には「宇佐大宮司」、次の「春頻」の横にも「宇佐大宮司」などと記されている。そして、以下何代にもわたって、似たような記事が続いている。

  してみると、御澄池と宇佐宮の深い結びっきは、「池守」の時だけでなく、かなりの期間続いていたことになる。
 だが、十三代までは「宇佐大宮司」・「権大宮司」などの肩書だが、それより後は「神主」・「権小宮司」などとなり、ずっと後には宇佐宮との関係を示す肩書は見えない。したがって、薦神社(御澄池)と宇佐宮の関係が特に深かったのは初期の頃のことだということになる。

 さて、以上に見た如く、御澄池と宇佐宮は二つの点で極めて深い関係にある。では、その理由は何であろうか。換言すれば、「御澄池の薦で宇佐宮の御神体を作るのは何故か」「宇佐宮の大宮司が薦神社から出たのは何故か」いうことである。筆者は、この疑問を解明した書物や論文を目にしたことがない。

 御澄池と宇佐宮の距離は、約二○キロで、かなり離れている。果たして、この両者はどこで結び付くのか。この疑問を解く鍵は、筆者の持論としている神体山にある。即ち、宇佐宮の神体山に注目することが大事である。宇佐宮の神体山は御許(おもと)山で、馬城(まき)峯とも呼ばれる。高さは約六五○メートルで、この山にイワクラのあることは名高い。今もこのイワクラは宇佐宮の奥宮とされていて、宮司さんは礼装で登拝しておられるが、一般には禁足地とされている。

 筆者は御許山に登った。幸いなことに、今は九合めまでクルマで行くことができる。そこにかなりの広さの平地があり、社殿があるが、この建物は拝殿であって、本殿ではない。拝殿正面の奥に石鳥居があり、「奥宮」という額が掲げられている。この鳥居を通して背後上方を見上げると、約三、四○メートルくらいで山頂である。その辺りにイワクラがあるはずだが、この石鳥居から上は禁足地になっているから登れない。筆者も鳥居の手前からイワクラと思われる辺りを拝んだ。

 本筋に戻るが、宇佐宮の原点が御許山にある以上、宇佐宮の本質に迫るには、宇佐宮の社殿にではなく、御許山に目を向けねばならない。「宇佐宮と御澄池との関係」・「宇佐宮と御許山との関係」に関しては、既に多くの人たちによって色々に説かれている。だが、それらの論説は、一口に言うならば、今の宇佐宮、即ち、宇佐宮の社殿(建物)を中心に置いた観点に立ったものと言える。これは、前に述べたことのある伊勢地域の場合に内宮(建物)を中心にして考えようとするのと同じ発想である。

 伊勢の場合に神体山の朝熊山を中心に据えたように、この地域では御許山を中心に据えることが大切である。「御澄池と宇佐宮(建物)との関係」でなく、「御澄池と御許山との関係」を考えるのである。

 ここで、筆者の結論を言えば、次の如くである。

★御澄池からの冬至の日の出線は御許山にいく。

 実際、二○キロ離れているにもかかわらず、御澄池からは御許山が見えるのである。
「御澄池の薦で宇佐宮のご神体を造るのはなぜか」・「宇佐宮の大宮司が薦神社から出たのはなぜか」の謎を解く鍵は、冬至の日の出線にある。

 くどいようだが、御澄池と宇佐宮は直接には結びつかない。だが、御澄池と御許山とは結びつく。これが、ことの本質である。なぜならば、宇佐宮の社殿ができるずっと以前から御許山はそこにあったのであり、今も奥宮とされている御許山こそが本来の宇佐宮そのものであったはずだからである。

(追記)大胆な推測を述べれば、以下の如くになる。

 「宇佐地域のどこからでもよく見える秀麗な姿の御許山は、この地域に住んだ古代の人たちから神体山として崇められていた。中でも、薦池地域の共同体の人たちは、この山から昇る冬至の日の出を拝んでいた。

 その後、薦池の地域に有力者が現れた。前記の「池守」の祖先がそれであるが、次第に宇佐地域に勢力を拡げていき、御許山の祭祀権を握るに至った。「池守」の頃、朝廷が隼人を征討したが、宇佐地域の人たちも征討軍として参加した。そのため、宇佐神(薦枕)を奉じたのである。隼人征討が成功した時、朝廷は宇佐神を権力の下に組み込んだ。一地方の神が国家的な神になったのである。立派な社殿が造られ、「池守」は初代の大宮司となった。

(追記)当初の御澄池は小さいもので、今の池中にある島の辺りに湧く泉の如きものであったと思われる。実際、この島の辺りに水が湧いていると言われているし、この島の辺りに生える薦でご神体を作ったのである。これらからして、おそらくは、この湧水は霊水として崇められていたと思われる。神祭りが聖なる水の辺りで行われる例は多い。なお、今のような大きな池になったのは奈良時代の頃とされている。

(追記)ある人は次のように言うかもしれない。「御澄池(薦神社)の奥宮は、その真南に位置する八面山である。」と。なるほど八面山も霊山である。筆者も御澄池から八面山を見てみたが、よく見えた。だが、この山を奥宮とするようになったのは、中世以降のことと思われる。即ち、先に「御薦社司相続系図」で見たように、薦社と宇佐宮との関係は次第に薄れていくが、その頃になると、御許山との繋がりは忘れられていったものと考えられる。即ち、薦社の奥宮は、御許山から八面山に代わったのであるが、その時期は、宇佐宮の御神体の薦枕を新調して取り替える行幸会の最後の記録になっている応永三○年(一四二三)の頃と考えられる。

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       大分県中津市にある御澄(三角)池

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     宇佐神宮の神体山「御許山」・奥宮の拝殿

⑧蚕の社と醍醐山
 蚕(かいこ)の社(やしろ)は、京都市太秦(うずまさ)に鎮座する木島(このしま)神社の境内摂社である。ここには、日本で唯一の三柱鳥居(石造)が、しかも、池の中に立っていて、謎の鳥居とされている。

 では、この謎を解く鍵はないか。この鳥居は三方正面、即ち、三方を拝むことのできる形のものと考えられる。筆者も訪れてみたが、その平面形は正三角形で、その中の一辺は東西線を示している。ということは、この東西の辺の中心に立てば真北を拝む鳥居となる。だが、他の二辺の中心に立てば、それぞれ冬至の日の出の方向と日の入りの方向を拝むことのできる鳥居となる。調べてみると、次のことが分かった。

★蚕の社からの冬至の日の出線は醍醐山(笠取山)に行く。

 そして、冬至の日入り線は松尾山に当たる。

 古代における太秦の地域は秦(はた)氏の本拠地であった。彼らの建てた広隆寺は蚕の社のすぐ近くにある。冬至の日の出線が行き着く醍醐山と秦氏との関係は、正直言って筆者には不明というほかないが、冬至の日入り線の行き着く松尾山が秦氏と切っても切れない松尾神社の神体山であることは、充分注目されてよい。

 加えるに、この神社は式内社で、神名帳には、「木嶋坐(このしまにます)天照御魂(あまてるみむすび)神社。名神大。月次相嘗新嘗。」とある。前記の如く、今は単に「木島神社」だが、注意すべきは「天照」の部分で、これは太陽に関係の深いことを窺わせる語である。そこで、「天照」の語を含む他の神社を神名帳で調べてみると、以下の如くであった。

(1)大和国城上(しきのかみ)郡に、「他田(をさた)坐天照御魂神社」。
(2)同国城下(しきのしも)郡に、「鏡作(かがみつくり)坐天照御魂神社」 。
(3)河内国高安郡に、「天照(あまてらす)大神高座神社」。
(4)丹波国氷上(ひかみ)郡に、「天照(あまてる)玉命神社」。
(5)対馬国下懸郡に、「阿麻氏留(あまてる)神社」。

 以上の中で「木嶋坐天照御魂神社」と同じ表記のもの(「天照御魂神社」の部分が全く同じ)は、(1)「他田坐天照御魂神社」と(2)「鏡作坐天照御魂神社」の二社である。

 では、この二社はどんな神社なのか。二社とも大和盆地にあり、三輪山との関係が考えられる。

 即ち、二社からの冬至の日の出線が三輪山へ行くのである。したがって、この二社の位置は、社殿が設けられる以前から三輪山に昇る冬至の太陽を拝んでいた聖地であったとして間違いあるまい。

 してみると、今問題にしている「木嶋坐天照御魂神社」(蚕の社)もまた、冬至の太陽を拝む聖地に建てられた神社だとしてよいことになる。即ち、単に「天照」でなく、「天照御魂」の四文字を共有する右の三社は、何れも単なる太陽でなく、冬至の太陽を拝む神社だということになる。以上から、蚕の社の三方正面の鳥居は、冬至における太陽の祭祀に関わるものとして間違いない。

 即ち、後世になって、以前から冬至の日の出と日入りを拝んでいた聖地(聖なる水の湧く地)に、今見るような鳥居を建てたものと考えられる。終わりになったが、醍醐山は、平安時代に聖宝理源大師が開いた山とされる。だが、それ以前に何でもない山であったとは考えられない。この山は、古くは笠取山と呼ばれ、笠取神を祭っていたと言う。そうした聖なる山に仏教が入ってきたのである。
 醍醐寺は下醍醐と上醍醐に分かれる。下醍醐は三宝院の庭や桜で有名で、ここを訪れる人は多いが、上醍醐まで登る人は意外に少ない。
 だが、本質的には上醍醐の方が重要である。

 上醍醐に登ると、ここにも多くの伽藍があるが、中でも目を引くのは中心的な建物である五大堂である。だが、筆者が上醍醐で重要だと考えるのは、醍醐水と如意輪堂の二つである。その中の醍醐水は、醍醐寺が開かれる以前からの霊水であろう。一方の如意輪堂には開山理源大師が自ら刻んだ如意輪観音が安置されているが、この堂は上醍醐の多くの伽藍の中で一番高い所に立っていて、ここからの眺めは山上随一とされている。注意すべきは、この堂の下に大きな岩があることである。筆者は、この岩はかつてイワクラであったと確信している。その理由は、次の二点である。

 一つは、如意輪堂が上醍醐の最高所にあるということは、この岩が上醍醐の最高所に位置しているということであるからだ。仏教が入る前には堂は無かったわけだから山頂にはこの岩(イワクラ)だけがあり、それが神祭りの中心として崇められていたのである。二つめは、そうした聖なる岩であったからこそ、そこに理源大師は自ら如意輪観世音を刻んで、安置したのである。

 以前からの原初的な神祭りの聖地に、後から仏教が入ってきて、仏教の聖地になりてしまう例は各地に見られるところである。逆に言えば、笠取山が聖なる山であったから、理源大師がここに修験の根拠を設けられたということである。
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          鳥居の平面図

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          蚕の社の三柱鳥居

⑨法隆寺と巻向山
 ★ 法隆寺からの冬至の日の出線は巻向(まきむく)山へ行く。

 巻向山は、三輪山のすぐ東に位置しており、万葉集などでは弓月(ゆずき)獄と呼ばれ、古くからの聖山であることは言うまでもない。その麓には、穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社が鎮座しているが、この神社は巻向山を神体山として設けられたと考えられる。世に名高い近くの大神神社よりも穴師坐兵主神社の方に注目する人もいるくらいの由緒ある神社でもある。

 千田稔氏は、「穴師という地名は秦氏との関係があり、また、弓月も秦氏の祖弓月君に由来するものと思われる。」と言っておられるが、その秦氏と聖徳太子が深い結び付きのあったことは周知のことである。「法隆寺が、なぜ今の地に建てられたのか」を考える時、その地がそれ以前に何の意味も価値もない場所であったとは思えない。太子ほどの人が選んだ地だから、よほど重要な意味を持った地であったはずである。加えて太子は秦氏と深いつながりがあるから、太子が秦氏の崇めていた巻向山を強く意識していたとしても不思議ではない。

 以上から、法隆寺の地は、巻向山に昇る冬至の太陽を拝むのに適した地であるということになる。そうした聖地であったから、聖徳太子がそこに法隆寺を建てたのである。なお、法隆寺の地が交通上・政治上における要地であったとする論説もあるが、そうした政治上の要地が宗教上の要地と重なることが多いことは既に述べた通りである。

⑩堅田の浮見堂と御上山
 琵琶湖の西岸の堅田にあり、近江八景の一つ。この辺りは古代海人の根拠。

★ 浮見堂からの冬至の日の出線は御上山(みかみやま)(近江富士)にいく。

 この山の姿は全く富士そのものである。麓には古社御上神社があり、山頂に奥宮がある。神社の方でも年に一度は登詣されるそうであるが、筆者も登ってみた。奥宮には小さな社殿があったが、イワクラは実に堂々 とした立派なものであった。岩上からは近江の平野を一望のもとに眺めることができた。ほぼ西方には、比叡山・八王子山(後記)なども見えた。

 なお、御上山は、八景の一つ唐崎の松から見ると真東に当たる。日吉大社の神体山(背後の牛尾山、また八王子山ともいう)の頂に「金大巌(こがねのおおくら)と呼ばれる巨岩があり、このイワクラと御上山とが丁度東西線になっているという人が多い。筆者も金大巌まで登ってみたが、なるほど、琵琶湖をはさんで御上山が本当に椅麗に見えた。だが、残念ながら、正確には東西になっているとは言えないようである。

⑪高野神社と美作の神奈備山
 津山市二宮にあり、式内社で、美作国の二宮。「今昔物語」にも出てくる。古くは「カウヤ」と発音されていたようだが、今は「タカノ」である。国指定重要文化財の門神立像(現存する門神像としては最古)・神号額(伝藤原行成筆)などが所蔵されている。

★ 高野神社からの冬至の日の出線は神奈備山に行く。

 筆者も見てみたが、神奈備山は高野神社からはっきり見える。

 この山は、「古今集」に「美作やくめのさら山さらさらにわがなはたてじよろずよまでに」

 と詠まれている久米の皿山の候補である。皿山の候補は他に二山あるが、筆者は、今問題にしている神奈備山が最も有力だと考えている。理由は、「神奈備」の名からして神体山であることは確かだし、今一つは古い社歴を持つ高野神社から冬至の日の出線に位置しているからである。なお、高野神社には、今一つの注目点がある。それは、そこに「宇那提森(うなでのもり)」のあることである。今は枯れかかった椋の巨木が一本しかないが、「森」という名が残っているので、昔は森があったと思える。

 ところで、「ウナデ」という地名は大和にもある。橿原市雲梯(うなで)町で、すぐ東南に畝傍山がある。

日本書紀の崇神天皇六十二年条に、「農は天下の大きなる本なり。民の恃みて生くる所なり。今、河内の狭山の埴田水少し。是を以て、その国の百姓、農の事怠る。それ多に池溝を開りて、民の業を寛めよ。」と見えるが、文中の「池溝」は「ウナネ」または「ウナデ」と訓む。即ち、「ウナデ」は農業用水を得るために人が掘った用水路と解される。

 大和の雲梯町には曽我川が流れ、美作の高野神社の前には吉井川が流れているから、そうした川から用水を引いたと思える。そうした重要な用水の取り入れ口にあった森が聖地であり、そうした場所には支配者が住んで水の権利を握り、更には、冬至に復活する太陽を拝んでいたものと考えられる。

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   高野神社から見た神南備山・高野神社の境内に残る椋

⑫加茂の庚申山と吉備の中山
 古今集や枕草子にその名が見える吉備の中山は、古代の吉備地域における神体山であった。大和の古代史が三輪山を中心に展開した如く、吉備の古代史はこの山を中心にして展開したと考えられる。即ち、分国以前の吉備地域全体の信仰的中心が吉備の中山であった。この山が吉備の人々 から聖なる山として崇められた証拠は多々 あるが、その主なものを挙げれば以下の如くである。

○ 吉備の中山は備前と備中の国境になっているが、備前国の一宮(吉備津彦神社)も備中国の一宮(吉備津神社)も共に、この山の麓によりついて鎮座している点は注目に値する。ということは、見方を変えれば、備前国の一宮はその国の領域の西端に、備中国の一宮はその領域の東端に位置するという形になっているのである。

 備前の一宮は、もっと東の国府跡・国分寺跡などのある旭川の流域にあってもおかしくない。その辺りが備前国の政治・文化・宗教などの中心であったはずだからである。同様に、備中の一宮は、もっと西の総社市辺り(高梁川流域)にあってもおかしくない。そこには国府跡・国分寺跡などがあるからである。

 しかるに、前記の如く、両国の一宮は何れも、よりによってその国の領域の一番端っこに位置しているのである。では、なぜそんな形になったのか。これは、両国に分国される時に備前も備中も共に吉備の中山を欲しがった結果、即ち、両一宮が何れも吉備の中山を神体山にしようとした結果だと考える以外にない。他の山では駄目なのである。これが、吉備の中山が備前と備中に折半された理由だと考えられる。

 これを逆に考えれば、備前・備中に分国される以前の吉備全体の神体山が吉備の中山であったということになるのである。

○この山のほぼ中央の頂きに吉備中山茶臼山古墳があるが、この古墳からは特殊器台形埴輪片が出ていて、古墳の多い吉備においても最古級の前方後円墳とされている。吉備津彦命の墓と言われ、土地の人は「御陵」と呼んでいる。宮内庁が管理しているので、墓域に入ることはできない。

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           庚申山と吉備の中山

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            足守川と庚申山

 別の尾根の頂きに、矢藤治山(やとうじやま)弥生墳丘墓がある。岡山大学の近藤義郎氏の発掘により、前方後円形の弥生末期の墳丘墓で、しかも前方部(突出部)がバチ型に開き、正に前方後円墳になる直前の弥生墳丘墓であることが確認されている。即ち、考古学上、更には古代史上の大問題である「前方後円墳はどこで発生したか」の疑問を解く鍵が、この矢藤治山にあると言えるのである。

(備考)筆者は、近藤氏とは見解を異にし、矢藤治山は弥生の墳丘墓ではなく、日本列島における最古の前方後円墳だと考えている。このことに関しては別論「任那・吉備連合政権」を参照されたい。
 今一つの尾根の頂きにも、尾上車山古墳と呼ばれる前期の大きな前方後円墳がある。

○麓の備前の一宮吉備津彦神社の境内を中心にして、奈良時代(もしかすると白鳳)に建てられた神力寺趾・神宮寺趾があり、当時の礎石や立派な瓦が多数出土している。
 同所付近からは、奈良三月堂の本尊の頭上の天井に嵌め込まれている鏡と同笵の海獣葡萄鏡(片)なども出ている。
 同所付近に、鎌倉初期に東大寺を復興した高僧重源が設けた常行堂の大きな瓦が多数出土している。それらの瓦の中には、「東大寺」・「吉備津宮常行堂」などの銘の入ったものも多数見られる。

○ 山麓。山中などに、三輪山に勝る多くの立派なイワクラがある。代表的なものを挙げれば、八畳岩・金比羅宮跡の巨岩・天柱岩。有木の不動岩・新宮の影向石・吉備津宮の岩山宮のご神体岩などである。

 さて今度は、庚申山のことに移る。庚申山という名の山は各地にあるが、ここにいうのは、岡山県西部を流れる足守川の中流の西側(岡山市加茂)の庚申山である。高さは約七○メートルで、山というほどでもない。頂きに帝釈天を祭った堂があるが、その背後に巨石群がある。これが古代のイワクラだと考えられる。筆者が、この山を重視する理由は、この山自体に古代・中世・近世にわたる種々な宗教的遺跡が密集していることもあるが、何よりもその周辺に古代史(考古学)関係の重要な遺跡が多いことである。代表的なものを挙げれば以下の如くである。

○真南約一キロには、全国第四位の規模を持つ前方後円墳として名高い加茂造山古墳が位置しているが、庚申山からは手に取るように見える。造山古墳から言えば、庚申山は真北になるが、この古墳が庚申山との方位関係を意識して造営された可能性は充分考えられる。

○東南約三キロには、全国第一位の大きな墳丘を持った弥生未期の首長墓である楯築(たてつき)弥生墳丘墓が位置する。

 楯築の丘を過ぎて足守川を遡れば、間もなく左岸に庚申山が近づいてくる。距離から見て、楯築の首長の支配領域に庚申山が含まれていたとすることに無理はない。
 また、庚申山は楯築の西北乾(いぬい)にあるが、乾の方位は宗教上大切な意味を持っていたはずである。

○真北約五○○メートル(庚申山の北麓)には、全国でも出土例の稀な王莽の貨泉二十五枚がまとまって出土した高塚遺跡があるが、ここからは極めて精巧な作りの流水文銅鐸も出ている。この遺跡は住居地とされているが、銅鐸が出ているので、すぐ真南に見える庚申山の祭祀と関係のある可能性が考えられる。

 西北約六キロには、大規模な朝鮮式山城(あるいは神寵石列石遺構)として全国的に名高い鬼ノ城(きのじょう)山がある。この山も庚申山からよく見える。前記の如く、西北は乾(いぬい)であり、注目すべき方位である。

○ 東南約五キロには、吉備の神体山である吉備の中山が実に椅麗に見える。
 この山の南の頂きに昇る冬至の太陽を庚申山から拝んだと考えられる(後述)。

○真北約四キロには、日本書紀の応神天皇二十二年条に天皇が逗留したと見えている「葉田(はだ)の葦守宮(あしもりのみや)」跡がある。

 今の地名は足守で、そこの丘上に鎮座する八幡宮がその旧蹟とされている。この丘は京都の神護寺所有の「備中国足守荘絵図」(重文)にも「八幡山」として描かれている。

 その他、複数の古代の住居跡・弥生墳丘墓・古墳・古代寺院跡など、古代を物語る遺跡は枚挙にいとまない。
 更に、特に大切な点は山容が非常に優れていることである。
このように見てくると、正に、この山は古代吉備の中枢に位置していると言える。

★庚申山からの冬至の日の出線は吉備の中山の南の頂きに行く

 この吉備の中山の南の頂き(以下、S山頂と表記)には現在鉄塔が立っているが、ここは楯築弥生墳丘墓からは真東に当たる。楯築弥生墳丘墓の頂上の中心部には、首長墓を取り囲むように列石遺構がある。考古学の方では、この遺構は首長墓と同時期に設けられたものとされているが、何の目的を持ったものかに関しては言及しておられない。筆者は、結論から言えば、楯築遺跡のある丘は、首長墓が設けられる以前 からの聖地、具体的に言えば、S山頂から昇る太陽を拝む聖地であったと考えている。そして、前記の列石遺構は、このことと関係があると思っている。

 楯築の丘とS山頂を結んだ線は東西になるので、ここからは春分・秋分の日の出を拝んでいたわけである。首長が出現する以前、既に共同体の人たちが、この丘をそうした聖地として大切にしていたはずである。

 楯築の丘から真東に進むと吉備の中山の麓に行き着くが、そこに吉備津宮の重要な摂社新宮がある。新宮は平安時代に編集された『梁塵秘抄』にその名が出てくるので、古い神社である。境内に影向石(ようごうせき)と言われる大きな岩があるが、これが昔のイワクラ、換言すれば新宮そのものであったと思われる。

 ところで、新宮の鎮座地は「東山」という字名であり、楯築の辺りは「西山」という字名である。字名からしても両者の関係の深いことが窺われる。新宮から、東に向かって山を登ると、S山頂に行き着く。S山頂からは弥生土器片や分銅形土製品が出ている。イワクラと思える岩があり、近年まで毎年山伏がここで護摩を焚いていた。何れにしても、S山頂は古代からの聖地だと言って間違いなかろう。なお、山頂・麓の新宮・楯築遺跡の三者が東西に一直線になっていることは言うまでもない。

 さて、何度も言うように、権力的な祭祀は以前からの聖地に後から入ってくる。楯築の丘に埋葬された首長も、生前にはこの丘からS山頂に向かって太陽の祭りをしていたが、死んだ時、彼女(発掘者の近藤義郎氏から直接お聞きしたところによると、出土した二枚の歯は六十%の確率で女性のもの。故に、女性首長)は神として、この聖地に葬られた。その時期は三世紀(ヒミコがいた頃)とされるが、この墳丘墓は同時期の列島における墳丘墓の中では最も大きい。最大の墓に葬られる人が最大の有力者だとすれば、楯築の女性首長は、三世紀の日本列島における最大の有力者であったことになる。首長の墓を取り巻く形に巡らされた列石遺構は、その内側を聖地とし、そこから山頂に昇る太陽を拝むための祭場を区切ったものと考えられる。

 本筋の庚申山のことに戻るが、前記の如く、この山からは楯築の丘からは真東に見えるS山頂が冬至の日の出線に当たる。この地域に住んだ共同体の人たち、或いは楯築の首長などが、春分・秋分には楯築の丘において、冬至には庚申山において、S山頂に登る太陽を拝んでいたものと考えられる。

 庚申山と楯築の距離は約三キロであるから、楯築の首長の領域が庚申山を含んでいたとすることに無理のないことは前に述べた。
 また、前記の如く、加茂造山古墳から言えば庚申山は真北約一キロの所にある。庚申山に登って南を見れば、指呼の間に造山古墳を見ることができるし、その逆も言えるわけである。

 してみると、全国第四位のこの前方後円墳に葬られた大有力者(大王)もまた、庚申山から山頂に登る冬至の太陽を拝んでいた可能性は極めて大きい。そして更に、庚申山がそうした聖地であったが故に、彼の墓もまた、庚申山を真北に望む位置に造営された可能性もまた極めて大きいと言えるのである。

(付記)「庚申山を中心にして加茂造山古墳・高塚遺跡・楯築遺跡などを考えてみる」という観点に立った論文は、残念ながら筆者は未だ見たことがない。

(古代思想研究者)
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